1961年、21歳の時、エルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」で訳詞家デビューすると、1964年には、園まりさんに作詞を提供した「何も云わないで」が大ヒットを記録し、

以降、「わたしの城下町」「危険なふたり」「激しい恋」「よろしく哀愁」など、次々と作詞曲をヒットさせた、安井かずみ(やすい かずみ)さん。

今回は、そんな安井かずみさんの、若い頃(訳詞家デビュー)から死去までの代表作(作詞作品、著書)や経歴を時系列でご紹介します。

安井かずみ

「安井かずみの生い立ちは?幼少期は?学生時代から華やかな生活をしていた!」からの続き

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安井かずみは21歳の時にエルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」で訳詞家デビュー

画家を目指して文化学院油絵科に進学すると、一般的な若者とは異なる華やかな生活を謳歌していたという安井かずみさんですが、

ある日のこと、新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)にラフマニノフの楽譜を買いに行った際、男性たちがアメリカのポピュラーソングの訳詞をしているところに居合わせたそうで、

安井かずみさんが、持ち前の語学力を活かし、

そこの所、こんな言葉はどうかしら?

と、アドバイスをすると、その場で訳詞をすることになったといいます。

すると、その場にいた訳詞家・漣健児さんに、その語学力と独特の発想による歌詞が気に入られ、エルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」の訳詞をすることを勧められたそうで、

1961年1月、21歳の時、「GIブルース」で訳詞家デビューしたのだそうです。

(漣健児さんは、後に、「ルイジアナ・ママ」「可愛いベイビー」など、アメリカンポップスの訳詞を手がけて、日本に洋楽を普及させています)

安井かずみは20代後半頃「花はどこへ行った」「ヘイ・ポーラ」「レモンのキッス」「アイドルを探せ」「ドナドナ」などの訳詞を手掛けていた

以降、安井かずみさんは、「みナみカズみ」のペンネームで、「花はどこへ行った」(補佐)「ヘイ・ポーラ」「レモンのキッス」「アイドルを探せ」「ドナドナ」などの訳詞を手掛けると、次々とアメリカンポップスをヒットさせ、

安井かずみさんの語学力(フランス語と英語)、独特の発想による訳詞は、歌の世界でも知られるようになっていきます。

「ヘイ・ポーラ」
「ヘイ・ポーラ」

安井かずみは25歳の時に園まりに提供した「何も云わないで」が大ヒット

その後、安井かずみさんは、名義を「みナみカズみ」から本名の「安井かずみ」にし、

文化学院時代から通っていたイタリアンレストラン「キャンティ」で親しくなっていたという、渡辺プロダクション(当時、芸能プロダクション最大手)副社長の渡邊美佐さんを通じて、渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、

渡辺プロダクション所属の歌手を中心に歌詞を書いて行くようになると、

(初めてオリジナルの作詞を手掛けたのは、1964年、中尾ミエさんの「おんなのこだもん」だったそうです)

1964年、25歳の時には、園まりさんに提供した「何も云わないで」が大ヒットを記録したのでした。

「何も云わないで」
「何も云わないで」

ちなみに、園まりさんによると、この「何も云わないで」を初めて聴いた時、とてもロマンチックな歌詞だと思ったそうですが、実は、この時、安井かずみさんはちょうど恋愛中で、その心情を歌ったものだと、マネージャーに聞いたといいます。

安井かずみは26歳の時に伊東ゆかりに提供した「おしゃべりな真珠」で「第7回日本レコード大賞作詞賞」を受賞

さらに、安井かずみさんは、1965年、26歳の時には、伊東ゆかりさんに提供した「おしゃべりな真珠」で「第7回日本レコード大賞作詞賞」を受賞し、たちまち脚光を浴びると、

センター分けのストレートボブ、付けまつ毛、ほっそりとしたスタイルの安井かずみさんは、しばしば雑誌のグラビアを飾り、私生活が記事になるなど、女性がまだ職業を持つことが珍しかった時代、若く美しく才能溢れる女性作詞家として注目されるようになっているのですが、

作家の林真理子さんは、この頃の安井かずみさんについて、

都会の匂いがぷんぷんしていた。濃いサングラスをかけて、煙草をくゆらす姿はとても日本人とは思えないほど、カッコよかった

と、語っています。

安井かずみ
若い頃の安井かずみさん。

安井かずみは27歳の時に訳詞「ドナ・ドナ」で一気に知名度を高めていた

また、安井かずみさんは、1966年、27歳の時には、ジョーン・バエズさんが歌って世界的大ヒットとなった「ドンナ・ドンナ」(「ドナ・ドナ」)を訳詞しているのですが、

岸洋子さんがNHKの歌番組「みんなのうた」で歌唱したことで、さらに知名度を高めています。

「ドナドナ」
「ドナ・ドナ」

安井かずみは28歳の時に「青空のある限り」、29歳の時に「恋のしずく」が大ヒット

そんな安井かずみさんは、同年(1966年)には、ローマで結婚しているのですが、

相変わらず、1967年には、「ザ・ワイルドワンズ」の「青空のある限り」、1968年には、伊東ゆかりさんの「恋のしずく」など、作詞曲をヒットさせる中、1968年6月には、夫婦でニューヨークに移住。

「恋のしずく」
「恋のしずく」

すると、夫が新しく始めた、アクセサリーのデザイン・製作・販売の仕事が大成功を収め、高収入を得るようになったそうで、安井かずみさんも、夫と一緒にアクセサリー製作をするようになったそうですが・・・

安井かずみさんは、ニューヨークの殺伐(さつばつ)とした空気に馴染めず、さらには、先の見えない生活にも不安を覚えるようになっていったそうで、

1969年3月には、そんな生活に耐えられなくなり、1人で帰国したのだそうです。

(1969年6月に離婚が成立したそうです)

安井かずみは32歳~35歳の時に「経験」「わたしの城下町」「激しい恋」「危険なふたり」「よろしく哀愁」などヒットを連発

その後、安井かずみさんは、同年(1969年)、沢田研二さんのソロアルバム「JULIE」で作詞家としての活動を再開しているのですが、

以降、

  • 1970年「経験」(辺見マリさん)
  • 1971年「わたしの城下町」(小柳ルミ子さん)
  • 1972年「激しい恋」(西城秀樹さん)
  • 1973年「危険なふたり」(沢田研二さん)
  • 1974年「よろしく哀愁」(郷ひろみさん)

と、作詞を手掛けると、次々とヒットとなったのでした。

安井かずみは38歳頃からは2番目の夫・加藤和彦の作曲作品の作詞に専念するようになっていた

また、安井かずみさんは、1977年には、ミュージシャンの加藤和彦さんと再婚しているのですが、

以降、他の歌手の作詞を断って、ほぼ加藤和彦さんの作品の作詞のみに専念するようになり、

と、加藤和彦さんのソロアルバムの作詞を数多く手掛けています。

ちなみに、加藤和彦さんと結婚後、安井かずみさんは、人々に憧れられるような夫婦を演じることを加藤和彦さんにも強制したそうで、夫婦で様々な国に出かけては、最先端の文化を取り入れ、洗練されたファッションに身を包んだりしていたそうで、

そんな2人の優雅な生活は、雑誌やテレビなどで頻繁に取り上げられ、人々の憧れの夫婦の象徴となったのでした。

安井かずみと加藤和彦
安井かずみさんと加藤和彦さんの共著「ヨーロッパ・レストラン新時代」より。

安井かずみの著書

また、安井かずみさんは、そのほかにも数多くの著書を出版していますので、ご紹介しましょう。

著書(単著)

著書(共著・編著)

など、数多くの著書を出版しています。

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安井かずみは肺ガンにより55歳で他界

しかし、そんな安井かずみさんも、1993年、53歳の時、体に異変を感じ、病院で検査を受けたところ、末期の肺ガンであることが判明したそうで、

(主治医は、安井かずみさんが末期の肺ガンで余命一年であることを、夫の加藤和彦さんにのみ伝え、安井かずみさん本人には、「悪性腫瘍」と告げたそうです)

その後、安井かずみさんは、抗ガン剤の治療を開始し、辛い治療に耐えながらも、最後まで仕事への意欲は持ち続けたそうですが、1994年3月17日、肺ガンにより、55歳の若さで他界されたのでした。

ちなみに、安井かずみさんは、同年2月末、

金色のダンシングシューズが 散らばって 私は人形のよう

と、日記に書き記していたそうですが、これが絶筆となったそうです。

「安井かずみの死因は肺ガン!闘病生活から死去までの経緯は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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