持ち前の語学力と独特の発想で訳詞家として活躍すると、その後は、超売れっ子の作詞家として引っ張りだことなり、時代の先端を行く女性の象徴として、雑誌やメディアで取り上げられた、安井かずみ(やすい かずみ)さんですが、
1993年に末期の肺ガンが判明し、闘病生活を続ける中、1994年3月に他界されています。
今回は、そんな安井かずみさんの、肺ガンと診断された時のこと、闘病生活から他界されるまでの経緯などをご紹介します。
「【画像】安井かずみの若い頃から死去までの代表作(作詞,著書)や経歴は?」からの続き
安井かずみは左胸痛で検査を受け末期の肺ガンと判明するも悪性腫瘍だと告げられていた
安井かずみさんは、1993年1月半ば、左胸に痛みを覚えたそうですが、年末年始をマウイ島のカパルアで過ごし、帰国したばかりだったことから、ゴルフによる筋肉痛だろうと思って放置していたそうですが、
1ヶ月経っても痛みが続いたことから、30年来のホームドクターである小杉医院で検査を受けると、
主治医に、
肺炎をこじらせている
と、言われ、専門医へ紹介状を書いてもらったそうで、東京医科大学で検査を受けたそうです。
すると、同年3月4日、末期の肺ガンが判明。
ただ、安井かずみさんは、主治医には何も言われず、3月8日に入院となったそうで、3月16日にようやく、「悪性腫瘍」と言われたそうです。
(主治医は、安井かずみさんの夫・加藤和彦さんにだけ、末期の肺ガンで助からないことと余命1年であることを告げていたそうです)
安井かずみは副作用に耐えながら抗ガン剤の治療を続けていた
そんな中、安井かずみさんは、3月23日から化学療法を開始すると、4月19日からは温熱療法を開始したそうですが、
吐き気や髪の毛が抜けるなどの辛い副作用に耐えながら、必死に、
これを乗り切れば光は見える
と、自分に言い聞かせていたといいます。
(当時はまだ、副作用を抑制する薬がなかったそうです)
安井かずみは抗ガン剤の効果で痛みが消え自宅で療養生活を送っていた
すると、やがて、抗ガン剤の効果が表れ、痛みが消えたそうで、安井かずみさんは、5月8日に退院したそうですが、翌日の5月9日から鳥居坂教会に通い始めたそうで、以降、毎週日曜日に教会に通うようになったといいます。
そして、自宅では、夫の加藤和彦さんとサンルームで紅茶を飲みながら、
今みたいに幸せな時間を持てたことはなかったね
と、語り合うなど、穏やかな療養生活を送ったのだそうです。
(しかし、同年5月半ばには、お父さんが胃ガンで、7月には友人で作家の森瑤子さんが同じく胃ガンで他界されるという不幸が続きました)
ただ、8月には、例年通り、黒川雅之・加藤タキ夫妻とマウイ島のカパルアでゴルフをすると、2~3ホール回るごとに休みをとらなければならなかったそうで、それほど体力が落ちていたそうです。
安井かずみは妹の順子に頻繁に会いたがるようになっていた
ちなみに、安井かずみさんは、病気になってから、妹の順子さんに頻繁に会いたがるようになっていたそうで、
退院したり、病院から外泊するたびに、順子さん家族を、家の近くにある「樓外樓飯店」に誘ったそうで、
順子さんは、その時の安井かずみさんについて、
姉はもうあまり食べられなくなっていましたが、楽しそうでした。その時に家族というものを感じていたんじゃないでしょうか。
苦しくなると病院から母のところに『ママ助けて。私のために祈って』と電話がかかってきたようです。母にも私にも、『元気になったら、みんなで暮らしましょう』と、そればかりを何度も言っていました
と、語っています。
安井かずみは放射線治療のため入退院を繰り返していた
しかし、同年(1993年)9月、鎖骨の上のリンパ節に転移が見つかったそうで、9月13日に再び入院し、放射線治療を受けると、9月28日には退院したそうですが、その後、再び、放射線治療のため入院となったそうで、
安井かずみさんは、次の本の打ち合わせをするなど、仕事への意欲を持ち続けていたそうですが、3度目の入院の際、もうダメだと悟ったようで、
(夫の加藤和彦さんによると)11月には、友人の玉村抄子さんに、昼間にもかかわらず、酔った状態で電話をかけていたといいます。
安井かずみの死因は肺ガン
そんな中、安井かずみさんは、12月12日、夫婦揃って洗礼を受け、12月中旬には、加藤和彦さんや妹家族と、カバルアの別荘で過ごしていたそうですが、22日に容態が急変し、24日に帰国すると、そのまま入院。
それでも、12月29日には退院し、帰宅したそうですが、年が明けた1994年1月5日、再び入院すると、その後、昏睡状態に陥り、2月8日には呼吸が停止したそうで、
3月17日午前6時5分、肺ガンにより、夫・加藤和彦さんの祈りの言葉を聞きながら、55歳で他界されたのでした。
「安井かずみと沢田研二の関係は?「危険なふたり」は願望の表れだった?」に続く
様々なアーティストやアイドルに数多くの楽曲を提供し、その数、約4000曲と言われている、安井かずみ(やすい かずみ)さんは、「危険なふたり」「追憶」「勝手にしやがれ」など、沢田研二さんの初期の頃の楽曲の作詞も数多く手掛け …