1956年、26歳の時、日本人として初めてバークリー音楽院に奨学生として渡米し、以来、ニューヨークを拠点に活動すると、1973年、44歳の時には、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド」を結成し、「孤軍」「インサイツ」など、ジャズと日本文化を融合させた作編曲でジャズ史に新たな地平を切り拓いた、秋吉敏子(あきよし としこ)さん。
そんな秋吉敏子さんは、小学1年生の時にピアノを習い始めると、16歳の時に、大分県・別府の駐留軍キャンプでジャズピアニストとして活動を開始し、19歳で上京すると、駐留軍キャンプで演奏する中、当時、日本ではほとんど関心を持たれていなかったモダンジャズに熱心に取り組むようになり、23歳の時には、モダンジャズバンド「コージー・カルテット」を結成したといいます。
今回は、秋吉敏子さんの生い立ち(幼少期から23歳で「コージー・カルテット」を結成まで)をご紹介します。

秋吉敏子のプロフィール
秋吉敏子さんは、1929年12月12日生まれ、
中華民国・遼陽の出身、
(かつては「大連」と表記されていたそうですが、後に訂正されています)
学歴は、
バークリー音楽院卒業、
ちなみに、「秋吉敏子」は本名で、「龝吉敏子(旧字体)」と表記されることもあるようです。
秋吉敏子は幼少期からピアノを習い始めていた
秋吉敏子さんは、中華民国・遼陽で日本人の両親のもと誕生すると、小学1年生の時、3年生が弾く「トルコ行進曲」に魅せられてピアノを習い始め、
その後、より良い教師に習うため、大連に移ると、そこで、女学校に通いながら、大連音楽学校で中国人の楊孝毅さんにピアノを習ったそうです。
秋吉敏子は16歳の時に駐留軍キャンプでジャズピアニストとして活動を開始していた
その後、日本が太平洋戦争で敗戦すると、秋吉敏子さん一家は、両親の故郷である大分県・別府市に引き揚げたそうですが、
秋吉敏子さんは、16歳の時、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でジャズピアニストとして活動を開始したそうです。
秋吉敏子は19歳の時に上京し駐留軍のキャンプで演奏活動をしていた
そして、1948年、19歳の夏には、仲間のミュージシャンに勧められて上京し、駐留軍のキャンプで演奏活動を始めたそうですが、
その頃の東京には、あちこちに駐留軍のキャンプがあったことから、毎晩のように、様々な芝居やショーなどの娯楽が提供され、楽器が弾けるならいくらでも仕事があったそうで、
秋吉敏子さんは、その頃のことを、
バンドはたくさんありました。今のようなフリーランスの時代じゃないから、ミュージシャンは一つのバンドに属しているわけです。いろいろなところにダンスホールがあって、日本人用、アメリカ人用という具合に数が多かった。
だから、それだけミュージシャンが必要だったのだと思います。ほとんどが海軍や陸軍の軍楽隊出身。そういう連中の若い人、それと昔、上海あたりのボートで演奏していたミュージシャンたちが親玉みたいな感じでやっていた時代です
と、語っています。
秋吉敏子は23歳の時に「コージー・カルテット」を結成していた
そんな中、秋吉敏子さんは、駐留軍のキャンプでの演奏活動だけでは飽き足らず、最新の輸入レコードが揃うジャズ喫茶へ足繁く通い、アメリカから送られてきた新譜のレコードを繰り返し聴きながら、本場のジャズ演奏への理解を深め、それらを必死にコピーしたそうですが、
(戦時中にアメリカで生まれたビバップというモダン・ジャズのスタイルは注目されていなかったことから、ほとんどの演奏家たちはその理論や演奏技法を理解できず、秋吉敏子さんをはじめとするごく一握りの熱心な演奏家たちだけが理解したそうです)
当時の日本では、踊りに適したスウィング・ジャズが好まれ、そのような演奏はお客さんにウケなかったそうで、何度もお店をクビになったそうです。
それでも、秋吉敏子さんはあきらめず、1952年には、最新のジャズを演奏するグループ「コージー・カルテット」を結成したそうで、
秋吉敏子さんは、
お金にはならなかったけれど、好きな演奏ができる喜びの方が大きかった
と、語っています。
「【画像】秋吉敏子の若い頃から現在までのアルバム(CD)ほか経歴は?」に続く
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1954年、ファースト・アルバム「アメイジング・トシコ・アキヨシ」でアメリカデビューを果たすと、1956年には、バークリー音楽院に日本人初の奨学生として留学し、以降、日本のみならず、世界のジャズシーンを牽引している、秋吉 …







