巨大で不気味な老人「ルネ・マグリットの男」、等身大の人形「ドイツの少年」、挑発的なスタイルの「未来と過去のイヴ」など、次々と独自の球体関節人形を発表されている、四谷シモン(よつや しもん)さん。1978年には、人形制作学校「エコール・ド・シモン」を開校し、経営者として活動しつつ、人形を作り続けておられます。


「少年時代~ロカビリー~ベルメールとの出会い」の続き

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万博で「ルネ・マグリットの男」

そんな四谷さんは、1967年11月に、
渋谷の東急百貨店本店開店キャンペーンの一環として、
ディスプレイ用人形を7体制作されると、

1968年5月には、雑誌「芸術生活」で、
「ブティックの前衛マネキン」として紹介されるなど、
人形作家として注目を集め、

「芸術生活」1973年11月号

1969年には、東急百貨店宣伝部の、
アートディレクターだった植松國臣さんに依頼され、

1970年の大阪万国博覧会「せんい館」に向けて、
「ルネ・マグリットの男」を制作されています。

「ルネ・マグリットの男」(四谷シモン人形館「淡翁荘」より)

ちなみに、この作品は、
巨大で、ぞっとするような不気味な老人が、
薄暗い中に15体突っ立ち、その間を、
繊維に見立てた赤いレーザービームが行き来する、
というもので、

この中の1体は、1971年、自らも出演された、
状況劇場公演「吸血姫(きゅうけつき)」に、
舞台装置として使われています。

「ドイツの少年」

その後も、四谷さんの創作意欲は、
衰えることなく続き、1972年(28歳)には、

本格的に人形作家として出発する足がかりとなった、
ほぼ等身大の人形「ドイツの少年」を制作。

そして、この作品が、
「10人の写真家による被写体四谷シモン展」で、
階上の中央に展示されると、たちまち話題となり、
様々な雑誌が、この展覧会を特集。

また、写真家の篠山紀信さんが、
この人形を撮影したことで、

雑誌「アサヒカメラ」の表紙にもなり、
ますます多くのアーティストを魅了したのでした。

四谷さんは、この作品について、

体つきにしても、あばら骨は浮いているのに、
腰から下はしっかりしています。

アンバランスなのに妙にそれらしく力強くて、
面白いものになっていると思います。

この人形は彫刻とは一線を画したもので、
きちんとした人体表現の基礎を踏まえていないのです。

思いこみ、腕力、エネルギーで作りあげた肉体表現です。
きちんと基礎のなかにおさまった人体表現は、
人の体はそうなっているというだけで、ときに弱く、
面白みのないものになってしまいます。

僕の人形はそうした基礎がなく、
デッサンの狂いなどは何も考えず、
「人形」への思いだけで作った、

そうであろうというくらいの、
肉体部分への思い込みからなるコラージュです。

あばら骨なら、あばら骨の直感的イメージ、
おなかならば子供だからポーンと張っているんじゃないか、
と思いをめぐらせながら作っていったものです。

僕はいつも多分そういうものが、
いいのではないかと思っているのです。

と、語っておられました。

第1回個展「未来と過去のイヴ」開催

そして、続く1973年には、
澁澤龍彦さんの後押しを受けて、
銀座青木画廊で第1回個展を開催。

この個展は、澁澤さんが、
「未来と過去のイヴ」と題しているのですが、

等身大の人形「未来と過去のイヴ」が、
裸にガーターベルト、網タイツを着用し、

パーマをかけた金髪に、赤い口紅をつけた、
挑発的なスタイルで、12体陳列されると、

翌日には12体すべて完売。
大成功を収めたのでした。

「未来と過去のイヴ」

四谷さんは、後に、

人形は初日に八体売れ、翌日完売しました。大成功です。
売り上げのことはともかく、自分の人形が売れて、
借金が返せたのはすごく嬉しいことでした。

新宿のアンダーグラウンドで生きてきたことが、花開いたのだと思いました。
無名でただ人形展をやっても、こうはいかなかったと思います。

「状況劇場のあの四谷シモンが」
ということが人の注意をひいたのだと思います。

僕は決してそれを狙っていたわけではありませんでしたが、
結果的にそういうことになりました。

そして芸術と文化の世界の錦の御旗である、
澁澤龍彦のオマージュが、絶大だったということもありました。

僕は自分の心のなかで「天下を取った」と思いました。
それが生活の保障に繋がるということではありません。
こういう展覧会を「やった」ということの手ごたえ、実感でした。

紀伊国屋画廊での前哨戦を経て、この展覧会によって、
僕はようやく人形作家としてデビューすることができました。
このとき僕は二十九歳でした。

と、語っておられます。

ちなみに、1975年に発表された、
「慎み深さのない人形」も、

手足のない裸に、上半身と下半身が180度逆に付いている、
(つまり、お尻が前にある)挑発的なスタイルなのですが、

「慎み深さのない人形」

これは、四谷さんが、当初、
ハンス・ベルメール(シュールレアリスム)の
影響を受けていたことに由来するもので、

以降の作品は、無垢な少年少女など、
穏やかな印象を与える人形を制作されています。

(※シュールレアリスムとは、夢や幻想など、
 非合理な潜在意識の世界を表現することによって、
 人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。)

学校経営と人形制作

また、1978年には、球体関節人形制作学校、
「エコール・ド・シモン」を開校。

この学校経営を始めたことで、ようやく、
人形だけで食べていけるようになったそうで、

四谷さんは、人々に人形作りを教えながらも、
コンスタントに人形を制作し続け、

1980年「機械仕掛けの少年」
1983年「解剖学の少年」
     「木枠でできた少女」

などの作品を発表されています。

「木枠でできた少女」

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「天使-澁澤龍彦に捧ぐ」シリーズ制作

そして、1987年には、
四谷さんの精神的支柱であり、
良き理解者であった澁澤さんが他界し、

四谷さんは、しばらくは、呆然自失となり、
創作が手につかなるほどになったそうですが、

やがて、創作を再開すると、1988年、

「澁澤さんに捧げる副葬品のつもりでつくった」

と四谷さんが言われている、「天使-澁澤龍彦に捧ぐ」シリーズ
(天上界のもの、天使、キリストなど)を制作。



以降、四谷さんは、人形制作を続けながら、
日本全国で個展を開催され、

2004年には、フランス、パリにある、
アル・サン・ピエール美術館の、
「人形 POUPEES」展に4点の人形を出展。

四谷さんの作品「少女の人形」が、
展覧会全体のポスターに取り上げられています。

また、2010年には、
四谷さんの人形制作に大きな影響を与えた、

ハンス・ベルメールの生誕地、ポーランドにある、
カトヴィツェの芸術団体の招待を受け、

現地で、球体関節人形「ピグマリオニスム・ナルシシズム」等を、
展示されるなど、海外でも高く評価されています。

「ピグマリオニスム・ナルシシズム」

さて、いかがでしたでしょうか?

金子國義さん、澁澤龍彦さん、唐十郎さんをはじめ、
様々な人々との交流を経て、人形を作り続けたことについて、

(彼らとの出会いは)運命としか言いようがない。
自分の夢の実現のために出会っていった人たち。

と語られ、

亡くなった金子國義さんと澁澤龍彦さんに向けては、

(人形制作を)まだやってますよ。やめないですよ。
最後までやりますよ。一歩も引かないですよ。やり続ける。
だからやってこれたと伝えたいですね。

と、おっしゃっていた四谷さん。

今後も四谷さんからは、
目が離せそうにありません!!

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