1972年3月「恋する季節」で歌手デビューすると、翌年の1973年6月にリリースした5枚目のシングル「情熱の嵐」が大ヒットを記録し、一躍トップアイドルとなられた、西城秀樹(さいじょう ひでき)さん。その後も、「ちぎれた愛」「愛の十字架」「薔薇の鎖」「傷だらけのローラ」「ブーメランストリート」「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」などのヒット曲と次々と飛ばし、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、「新御三家」と呼ばれ、絶大な人気を博しました。
台所の一角の3畳間からスタート
こうして、16歳で上京された西城さんは、
プロデューサーの上条英男さんのアパートに、
居候することになるのですが、
西城さんに与えられた部屋は、台所の一角の、
3畳もない場所で、足がとても寒かったそうです。
ただ、西城さんいわく、希望に燃えていたため、
少しも気にならなかったそうで、歌、踊り、芝居などの、
厳しいレッスンに勤しまれたのでした。
(とはいえ、訪ねて来たお父さんは、この状況を見て、
息子がいじめられていると思い、怒り狂われたそうで、
西城さんを連れて帰られそうになったのだとか。)
「恋する季節」でデビューするも・・・
その後、まもなく、デビューが決定すると、
西城さんは、チーフプロデューサーの家に移り、
8畳の部屋を与えられることに。
そして、1972年3月、「ワイルドな17歳」、
というキャッチフレーズとともに「恋する季節」で歌手デビューすると、
「恋する季節」
1972年7月「恋の約束」
11月「チャンスは一度」
1973年2月「青春に賭けよう」
と、続け様にシングルをリリースするのですが、
ヒットはしなかったのでした。
「新御三家」としてトップアイドルに
しかし、翌年の1973年6月に、
5枚目のシングル「情熱の嵐」が、ついに、
オリコン週間チャートでベストテン入りすると、
西城さんは一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、
同時期に活躍していた、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、
「新御三家」と呼ばれるなど、一世を風靡。
「情熱の嵐」
西城さんは、当時を振り返り、
デビュー当時は、歌番組の全盛期でした。
俳優の仕事もあり、プライベートな時間はなく、睡眠は3時間。
何よりも睡眠欲が勝る日々に、
じっくり話す余裕がなかったのが正直なところです。
同じ時代を共有した仲間として、2人の活躍を、
「僕も頑張らなきゃ」との思いで見ていました。
と、明かされていました。
(現在も、野口さんとは、家族ぐるみのおつきあいがあるそうです。)
絶唱型で「傷だらけのローラ」などが大ヒット
そして、1973年9月にリリースされた、
6枚目のシングル「ちぎれた愛」からは、
西城さん自ら編み出した「絶唱型」、
と言われる歌唱法で歌われているのですが、
この曲を含め、その後にリリースされた、
1973年12月「愛の十字架」(7枚目のシングル)
1974年2月「薔薇の鎖」(8枚目のシングル)
5月「激しい恋」(9枚目のシングル)
8月「傷だらけのローラ」(10枚目のシングル)
が、ことごとくヒット。
西城さんは、この歌唱法について、
単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、
やはり、ロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う。
と、明かされています。
派手なアクションで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が大ヒット
また、西城さんはこの「絶唱型」のほか、
長髪や、マイクスタンドを駆使した派手なアクションなど、
(これらもロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの影響)
これまで「不良の音楽」と思われてきたロックを、
歌謡曲に定着させ、若い世代を中心に多くの人々の心を掴むことに成功。
さらに、1979年2月には、当時アメリカでヒット中だった、
「ヴィレッジ・ピープル」のカバー曲、
「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をリリースすると、
「Y」「M」「C」「A」の4文字を、
全身で表現したパフォーマンスが大流行。
人々を元気づける、明るいこの楽曲は、
老若男女問わず、現在も歌い継がれるほど、
国民的な人気を博すこととなったのでした。
以降、西城さんは、歌手としてだけではなく、
テレビドラマ、映画、バラエティ、CMなど、
幅広い分野で活躍されたのですが・・・
そんな順調満帆な西城さんに、
突然、病が襲いかかります。
「死因は?脳梗塞でFNS歌謡祭口パク?嫁は?子どもは?」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=UiYXaF1AWec