奈良岡朋子の若い頃は民藝の看板女優として活躍していた!


90歳を回った現在も現役で舞台に立ち続け、かつ、劇団「民藝」の代表を務められている、奈良岡朋子(ならおか ともこ)さん。今回は、そんな奈良岡さんの演劇との出会いと劇団「民藝」に入団された経緯についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

奈良岡さんは、1929年12月1日生まれ、
東京府東京市本郷区駒込(現:東京都文京区)のご出身、

身長156センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
府立第一高女(現・東京都立白鴎高等学校・附属中学校)
⇒青森県立弘前中央高等学校卒業
⇒女子美術大学洋画科卒業

趣味は、パチンコ、

ちなみに、お父さんは洋画家の奈良岡正夫さんで、100歳で他界されているのですが、亡くなる数日前まで、病室で絵を描いていたそうです。

滝沢修や宇野重吉の演技に感動する

奈良岡さんは、もともと、奈良岡家の家系に医者がいなかったことから、医者を目指していたそうですが、1945年に日本が敗戦し、時代が自由へと移り変わったことがきっかけで、画家だったお父さんの影響もあり、美術大学に進学し、演劇部に所属して舞台装置などを制作されると、

当時の娯楽だった映画やお芝居を観る中、滝沢修さんや宇野重吉さんらの演技に、これまで受けたことがないような感動を覚えたそうです。

「民衆芸術劇場」に研究生として入団

そして、大学2年生の時、帝劇で行われた新劇(民衆芸術劇場)公演のチラシの片隅の「研究生募集」という文字に目が留まったそうですが、その新劇の出演者が、あの滝沢さんと宇野さんたちだったそうで、

滝沢さん、宇野さんたちに会える

との思いから、奈良岡さんはすぐに応募し、受験されると、見事合格。

お父さんには反対されるも、最終的には、学校を卒業することを条件に、「民衆芸術劇場」に入ることを許してもらい、さらに、今後、絵を描いてはならぬと厳命されたことから、

絵筆は取らない

と、お父さんと約束し、お芝居の道に入られたのでした。

(奈良岡さんは、今もその約束を守り続けているそうです)

宇野重吉による厳しい稽古

こうして、1948年、「民衆芸術劇場」に研究生として入団した奈良岡さんですが、宇野さんの稽古は、泣く人が出るほど厳しい稽古だったそうで、

悔しがりやだから泣くのを見せたくない。あまりにダメ出しされて情けなく、一人で泣いたことはありますが。

と、徹底的にしごかれ、

明日の朝、目が覚めなきゃいいのに

と、思うほど、稽古に行くのが怖かったそうです。

劇団「民藝」の看板女優として活躍

それでも、奈良岡さんは、同年、「女子寮記」で初舞台を踏むと、1950年には、宇野さん、滝沢さんとともに、劇団「民藝」の設立に参加し、旗揚げ公演「かもめ」(チェーホフ作)に小間使いの役で出演。

(「民衆芸術劇場」から劇団「民藝」に再建されたそうです)

1954年には、「煉瓦女工」で初めて主演を務めると、以降、劇団「民藝」の看板女優として活躍し、「奇跡の人」「イルクーツク物語」「神戸北ホテル」など、「民藝」だけで100本以上、ほかの舞台も合わせると7000本以上も出演されており、

今、私が役者としてやっていられるのは”宇野演出”の厳しさに耐え抜いたから

と、今では、厳しい稽古をつけてくれた宇野さんに感謝されているとのことでした。

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劇団「民藝」の代表として

また、奈良岡さんは、1988年に劇団「民藝」の代表だった宇野さんが他界した後は、同期の大滝秀治さんととともに、劇団の経営にも携わっていたのですが、

経営面では手こずらされたが、芝居好きで正直で子供みたいな人

と、大滝さんとの劇団の経営はなかなか大変だったようです。

ちなみに、2012年に大滝さんが他界した後は、一人で劇団を経営されています。

「奈良岡朋子の太陽にほえろ出演は石原裕次郎たっての頼みだった!」に続く

宇野重吉さんと奈良岡さん

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