小学2年生から野球を始め、高校は野球の強豪校・創成館高校に進学するも、甲子園の夢が果たせなかった、岡田健史(おかだ けんし)さん。そんな岡田さんの、野球一筋だった高校時代、デビューまでの経緯について、調べてみました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?事務所は?
岡田さんは、1999年5月12日生まれ、
福岡県のご出身、
身長180センチ、
体重67キロ、
血液型はO型、
本名は、
水上恒司(みずかみ こうし)、
学歴は、
福岡市立和白丘中学校
⇒長崎県創成館高校卒業
趣味は、筋トレ、映画鑑賞(特に韓国ドラマの「アイリス」が大好きだそうで、サスペンス、カーアクション、銃を使うアクション、ラブストーリーなど、いろいろな陰謀などが組み込まれていて、とてもおもしろいそうです)
特技は、野球(高校時代は、野球部でキャッチャー)
所属事務所は、内山理名さん、黒木メイサさん、桐谷美玲さんなどが所属する「スウィートパワー」の若手俳優部門である「スパイスパワー」
ちなみに、中学卒業時は、学生服の袖に付いているボタンまで全てなくなるほどのモテぶりだったそうですが、お父さんも同じ逸話をお持ちとのことで、岡田さんのイケメンぶりはお父さん譲りのようです。
高校の卒業式の岡田さん。
小学・中学・高校で野球漬け
岡田さんは、小学校2年生から野球を始めると、地元の硬式野球チーム「ヤング福岡ライナーズ」に所属するなど、以降、野球一筋に打ち込み、高校は、特待生として、長崎県諫早市にある野球の強豪校・創成館高校に進学。
小学生の時の岡田さん。
寮生活を送りながら、プロ野球選手を目指し、
高校野球は毎日です。休みはなかったです。休みはお盆と年末年始にまとめてあるくらいで、それ以外は雨が降っても雪が降っても絶対に練習をやってました。
と、野球漬けの毎日を送られたそうですが、体力や技術面で限界を感じ、甲子園に行くことを一番の目標に変更することを余儀なくされます。
それでも、強豪校ゆえに、多くのライバルに囲まれ、なかなかレギュラーの座を奪うことは難しく(岡田さんのポジションはキャッチャー)、
高校3年生の時、初めて「第99回全国野球選手権長崎大会」の3回戦で、キャッチャーとして先発出場し、4打数2安打という成績を残されたのですが、残念ながら、チームは準々決勝で敗れてしまい、甲子園の夢は叶わず、引退となったのでした。
ちなみに、岡田さんは、その時のことを、
僕、割と冷静な方なんですけど、夏に限らず負けた瞬間は、負けた要因を瞬時に考えて、あのときこういう勝負をしてしまったから負けてしまったんだとか、ここで決めきれなかったから負けたんだとか分析をしてました。
もっというとあいつは私生活であんなだからエラーしてしまうんだとか、最後の大会でもそんなことを考えていました。だから、みんなが泣いてる中で自分は泣かなかったんです。
でも、ベンチの裏に行ったら保護者の方がバーっていらっしゃって、その時に両親の顔を見たら思いがこみ上げてきて。今まで自分勝手に野球をやらせてもらったのに、しかも家族と離れてすごくお金もかかるのに、協力してくれたのに、結果を出せなくてごめんっていう気持ちで涙が出ました。
と、語っておられました。
(創成館高校は、岡田さんが高校1年生の時(2015年)、初の甲子園出場を果たして一回戦を突破すると、その後も、岡田さんが引退した後の2017年には、「第141回九州地区高校野球大会」で初優勝、全国大会「明治神宮野球大会」でも初出場で準優勝するほか、2018年にも長崎代表として春・夏甲子園連続出場を果たしています。)
高校野球部時代の画像
それではここで、岡田さんの高校野球時代の画像をご紹介します。
ご覧の通りのイケメンで、この頃にはすでに、同級生のお母様方から、「イケメンキャッチャー」と呼ばれ、人気者だったそうです♪
中学1年生の時から5年間芸能スカウトされ続けていた
そんな岡田さんですが、実は、中学1年生の時に、現在の所属事務所「スパイスパワー」にスカウトされ、以来、5年間に渡り、ずっとスカウトされ続けていたのだそうです。
ただ、岡田さんはというと、野球に打ち込んでおり、高校も野球の強豪校に進学すると、その後、社会人野球に進もうという目標を持っていたため、芸能界に興味はなかったとのことで、
初めてスカウトされた時のことを、岡田さんは、
最初のことはよく覚えています。中1の冬で、給食袋の袋を振り回しながら帰っているときに呼び止められて。
そんな中で名前を聞かれたりして正直に答えて、家に帰ってお母さんに言ったら名前教えるなんてとすごく怒られて(笑)。
ちょっと落ち込んでいたら、次の日も同じところにいて、今度は2人に増えてる!恐怖を感じて道の反対側を歩こうとしたら、こういう者ですって、改めてスカウトされました。
と、おっしゃっていました。
野球部引退後、演劇部にスカウトされる
その後、岡田さんは、高校3年生の夏に野球部を引退するのですが、その頃、高校の演劇部の顧問の先生が男子キャストを探していて、校長先生が岡田さんを勧め、
助っ人として出てくれないか
と声をかけられたそうで、
当初、岡田さんは、
演劇かぁ……
と、乗り気ではなかったそうですが、
高校には野球の特待生で入れていただいたのに、甲子園にも行けず、まったく結果を出すことができなくて。
自分をここまで成長させてくれたのは、充実した学校生活のおかげだと思っていたので、なにか恩返しができないかなと考えていたんです。そんな時に、ちょうどそのお話があったので「やろう」と思いました。
と、助っ人の話を引き受けられたのでした。
ちなみに、初めての舞台は、長崎で1945年8月9日に原爆が落ちる11時2分から1時間前の、ある家族の日常を描いた作品だったそうで、岡田さんは、主人公の女の子のいとこで、特攻隊に行くことを報告しに行くという役どころで、初めてのセリフは「こんにちは。」だったそうですが、
野球の試合以上に緊張し、それと同時に、それまで野球しかやったことがなく、ちょうど、サッカーや野球など、野球以外のことをやるのがおもしろいと思っていた時期で、
野球以外のことをする楽しさや、挑戦することへのやりがいを感じていた時期でもあったので、ワクワクした気持ちも感じていたとのことでした。
県大会で審査員から名指しで賛辞~俳優を目指す
それでも、まだ、演劇の地区大会に出場された時は、
僕は助っ人だし先生の言うことを聞いてればいいや
と、安易な気持ちでやっていたそうですが、
地区大会から県大会に上がれる高校は3校のみで、さらに九州代表に上がれるのは1校のみと、どんどんレベルが高くなっていくのを目の当たりにすると、
自分はキャストとして選ばれているけど出演していない子たちもいる。安易な気持ちでやってたらその子たちは嫌だろうな。
と、考えを改め、自分なりに取り組むようになると、
県大会の時には、審査員の方に名指しで褒められたそうで(顧問の先生によると名指しで褒められる人は珍しかったそうです)、自分なりに取り組んだ結果が評価してもらたことはもちろんのこと、名指しでの賛辞がめったにないことだと知ると、うれしくなり、この時、俳優になりたい、と思われたのだそうです。
そして、覚悟を決めて、両親に、俳優になりたい気持ちを伝えたのですが・・・
ちょっと待てお前、一回座れ
と、言われ、両親は猛反対。
しかし、岡田さんは、
決めゼリフじゃないんですけど、今まで育ててくれたことには感謝してるけど、僕の人生だから好きなことをやらせてくれって。その分、失敗しても自分で責任をとるからやらせてくださいって。一ヶ月間ずっと頼みこみました。
と、両親を説得し続けると、ついに両親も許してくれ、晴れて俳優の道に邁進することとなったのでした。
「岡田健史の中学聖日記ほか出演ドラマ映画は?写真集も!」に続く
岡田さんの初舞台「髪を梳かす八月」より。左端が岡田さん。