高校卒業後の1962年、「文学座付属演劇研究所」に2期生として入所すると、「冬の花」(1970)、「オセロー」(1972)、「審判」(1980)、「アマデウス」(1982)、「シラノ・ド・ベルジュラック」(1983)などの古典劇に数多く出演して頭角を現した、江守徹(えもり とおる)さん。今回は、そんな江守さんの、生い立ちからデビューに至るまでの経緯について調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

江守さんは、1944年1月25日生まれ、
東京都のご出身、

身長171センチ、
体重75キロ、

血液型はA型、

学歴は、
新宿区立四ツ谷第一小学校
⇒江古田小学校
⇒駒込小学校
⇒板橋区立志村第三小学校
⇒板橋区立志村第一中学校
⇒東京都立北園高等学校卒業(美術部と演劇部を掛け持ち)

趣味は、
映画鑑賞、将棋、テレビゲーム、絵画、熱帯魚、格闘技観戦、ボクシング、

特技は、
パソコン、ワープロ、英語(翻訳)、ギター、ハーモニカ、水泳、

ちなみに、本名は「加藤 徹夫(かとう てつお)」で、
芸名はフランスの俳優・劇作家モリエールから名付けられたそうです。

幼少期は映画少年

江守さんは、生まれる前にお父さんが戦死されたため、お母さんに女手一つで育てられたそうで(そのため、お母さんの転職に伴い、4回も転校されたそうです)、

絵画、音楽、文学が好きだったお母さんが、趣味で絵を描いていたことや、3歳の頃から映画によく連れて行ってもらったことなどから、物心ついた頃から、芸術的な方面に憧れをもつようになると、自然な流れで、

ああいうこと(俳優業)をやってみたい

と、思うようになったそうです。

また、母子家庭で、お母さんが働いて苦労していることを知っていたため、子ども心にも、俳優をやればお金を稼げるのではないかと考え、俳優を目指そうと思われたそうです。

(小学生の時には、お小遣いはすべて映画に使い込むほど映画が好きで、学芸会では、「閻魔大王」の役など、メインキャストを務められたそうです)

「文学座付属演劇研究所」に2期生として入所

そして、そんな江守さんの夢を、お母さんも喜んで応援してくれたそうで、成長した江守さんは、高校入学後は演劇部に入部。

当初は、どうやったら映画俳優になれるか分からなかったものの、やがて、演劇雑誌で「文学座」「俳優座」「民藝」などの劇団に養成所があることを知ったそうで、

一度は、大学に進学して英文学を勉強したいと思うようになったこともあったそうですが、やはり、俳優になる夢を捨てきれず、高校卒業後の1962年、19歳の時、「文学座付属演劇研究所」に2期生として入所。

(当時の「東宝」の「ニューフェース」という言葉が嫌で、それらとは違う、杉村春子さんや宇野重吉さんなど、新劇俳優の道を知ったことで「文学座」を選ばれたそうです)

翌年の1963年には、「トスカ」(プッチーニ作)で初舞台を踏むと、準座員を経て、1966年には「文学座」の座員に昇格。

すると、独特の風貌と演技力が買われて、「冬の花」(1970)、「オセロー」(1972)、「審判」(1980)、「ハムレット」(1981)、「アマデウス」(1982)、「シラノ・ド・ベルジュラック」(1983)など、数多くの舞台に出演され、


ハムレットより。倉野章子さんと江守さん。

「オセロー」「シラノ・ド・ベルジュラック」「紀伊國屋演劇賞個人賞」を受賞されたほか、「ハムレット」では演出も担当するなど、頭角を現していったのでした。

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大島渚監督の「悦楽」で映画デビュー

また、1965年には、大島渚監督の「悦楽」で映画デビューも果たし、当初は、「宴」「若者たち」「兵隊やくざ・強奪」などで端役が続くも、1969年には、映画「私が棄てた女」で主人公の同窓生役を演じ、存在感を示します。

その後、1970年以降は、活動の場を主に舞台とテレビに移されますが、1989年には、映画「社葬」で、立身と自己保身のためには手段を選ばない大手新聞社の取締役を演じると、主演の緒形拳さんと火花を散らす演技を見せ、「日本アカデミー賞優秀助演男優賞」を受賞。

以降も、数多くのテレビドラマや映画に出演されています。

「江守徹のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く


社葬

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