「The Beatles」解散後は、音楽活動を続けていくかどうか悩むほどショックを受けたという、ポール・マッカートニーさんですが、徐々に立ち直っていくと、新バンド「ウイングス(Wings)」を結成されます。
「ビートルズ解散の原因はオノヨーコではなくジョンレノン?」からの続き
新バンド「ウイングス(Wings)」結成
ポール・マッカートニーさんは、「The Beatles」解散後、「マッカートニー」(1970)「ラム」(1971)と、2枚のソロアルバムを発表されると、いずれもヒットを記録するのですが、
「The Beatles」解散のショックを引きずって、あまりにも落ち込んで、お酒に溺れ、このまま音楽を続けるのかも分からなくなり、それからもまもなく、家族とともにスコットランドに引っ越しされます。
しかし、妻・リンダさんの励ましもあり、徐々に立ち直っていかれると、
バンドっていうのはいいなと思って。また原点に戻りたかった。
と、1971年には、新たなバンド「ウイングス(Wings)」を結成されます。
ファーストアルバム「ワイルド・ライフ」はパっとせず
ただ、そのメンバーはというと、ポールさん、デニー・シーウェルさん、元「ムーディー・ブルース」のデニー・レインさんに加え、ポールさんの妻のリンダさんを含む4人編成で(後にデニー・シーウェルさんが脱退、ヘンリー・マカロックさんが加入&脱退)、
(「ウイングス」は)ド下手だった。いいグループじゃなかった。「リンダはキーボードできないのに」ってみんなに言われたし、その通りだった。でも(ビートルズを)始めた時、ジョンもギターができなかったし。
と、キーボードのできないリンダさんをメンバーに加えたことで、当初は批判を浴び、
1971年12月にリリースしたファーストアルバム「ワイルド・ライフ」も、わずか2週間で完成させたという荒削りな内容で音楽評論家の批判を浴び、ヒットチャートは全米・全英ともに10位代に甘んじたのでした。
「アイルランドに平和を」「マイ・ラヴ」などが大ヒット
ただ、1972年2月にリリースしたファーストシングル「アイルランドに平和を」は、政治色の濃い内容だったため、多くのメディアで放送禁止処分を受けたものの、大ヒットを記録すると、
「アイルランドに平和を」
同年5月にリリースした2枚目のシングル「メアリーの子羊」、そして、12月にリリースした3枚目のシングル「ハイ・ハイ・ハイ」も、立て続けに大ヒットを記録。
「メアリーの子羊」
「ハイ・ハイ・ハイ」
さらに、1973年3月にリリースした4枚目のシングル「マイ・ラヴ」は、「ウイングス」にとって初の全米第1位を記録し、
「マイ・ラヴ」
同年6月、映画「007 死ぬのは奴らだ」の主題歌としてリリースした5枚目のシングル「007 死ぬのは奴らだ」は、全米第2位を記録。
「007 死ぬのは奴らだ」
こうして、ポールさんと「ウイングス」は、全盛期を迎えたのでした。
「ウイングス」初の来日ツアー予定も大麻所持で中止
その後、メンバーの脱退&加入がありながらも、次々とヒットを連発していた、ポールさんら「ウイングス」は、1979年にイギリスでのツアーを終えると、1980年には、初めての来日ツアーが予定されていたのですが・・・
ポールさんが日本に大麻を持ち込んだことで検挙され、急遽、日本でのツアーは中止。
(実は、5年前の1975年にも、来日公演が予定されていたのですが、ポールさん夫妻の過去の薬物所持を理由に入国が拒否され、実現には至っていませんでした)
そして、同年、ポールさんは、ソロアルバム「マッカートニーII」の中で、「フローズン・ジャパニーズ」を発表されているのですが、この曲は日本人に対しての逆恨みではないかと騒がれたのですが、
ポールさんは、
曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。
そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ。
と、否定。
実際、「フローズン・ジャパニーズ」は、来日前の1979年夏にすでに完成していますので、恨み節でないことは確かです。
ちなみに、日本では、違法薬物の取り締まりが厳しく、有名人であろうと融通はききませんが、ヨーロッパのいくつかの国では、比較的、寛容で、有名人だと渋々ながらも入国をパスしてくれるケースが多かったようで、ポールさんたちも、大麻所持で日本入国が拒否されるとは思っていなかったのかもしれません。
そのためか、メンバーのデニー・レインさんは、その後、「ジャパニーズ・ティアーズ」という日本を揶揄する曲を発表されています。
「ポールマッカートニーのジョンレノン死去時コメントは?武装警備?」に続く