「かわいい女の子が多い」との理由から、和歌山大学教育学部附属中学校を目指して猛勉強すると、見事、合格した、小林稔侍(こばやし ねんじ)さんですが、大学受験の時、たまたま見た新聞広告をきっかけに人生が一変します。

「小林稔侍の生い立ちは?小学生の時から映画に夢中だった!」からの続き

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中学時代は戦争の爪痕残る和歌山市まで毎日1時間かけて通学

晴れて、和歌山大学教育学部附属中学校に入学された小林さんは、3年間ずっと、汽車で1時間かけて、和歌山市まで通われていたそうですが、

和歌山市は、焼け野原となっていたほか、和歌山城も焼失してなくなってしまっていたそうで、まだ戦争の爪痕が残っていたそうです。

それでも、小林さんは、市電に乗って和歌浦に遊びに行くなど、中学時代を満喫していたそうです。

「東映ニューフェイス」に合格

その後、小林さんは、高校に進学するのですが、卒業後は大学に進学しようと、大学受験の願書を書こうとしていた時、たまたま、「東映ニューフェイス募集」の広告を新聞で見つけ、応募します。

というのも、小林さんは、もともと東京に憧れていたことから、「東映ニューフェイス募集」に応募すれば、不合格でも3~4日は東京に滞在できる、と思ったからだそうです。

また、もう一つの理由として、とてもかわいがってくれた両親のため、

(俳優になれば儲かると思って、家が借家だったため)親父やお袋に家を建ててやり楽をさせたい

と、親孝行をしたかったのでした。

すると、小林さんは、男女合わせて24000人ものオーディション受験者の中、見事、たった4人の男性の合格者になったのでした。(女性は15~16人)

ちなみに、最終面接の時には、学生服で臨まれたそうですが、「東映」の大川博社長の前で、

こんな田舎者が最終面接に残れるなんて夢のようです

と、言ったそうです(笑)

兄からのサポート

その後、小林さんは、「俳優座」の養成所に入所し、演技の勉強を始めるのですが、銀行員をしていた10歳年上のお兄さんが、テープレコーダーとカメラを買ってくれたそうで、すぐに養成所に持っていくと、みんなで声を入れて遊んだそうです。

ただ、その帰り道には、生活のため、カメラとともに質屋に入れ、それっきりとなってしまったそうです。

ちなみに、テープレコーダーとカメラ両方合わせると、8万円近くしたそうですが(当時のサラリーマンのお給料は1万7000~8000円)、お兄さんは、そのほかにも、小遣いをくれるなど、いろいろな形でサポートしてくれたそうです。

(お兄さんは40歳という若さで他界されています)

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端役(通行人)の日々

やがて、養成所を卒業し、幹部候補生となり、俳優への一歩を踏み出した小林さんですが、

東映撮影所の門の前に立った時、

ああ、俺は50歳頃まで俳優の芽は出ないだろうな

と、思ったそうです。

というのも、東映撮撮影所には、男性だけで300人もおり、縁故も何もない小林さんの役はというと、通行人の役ばかり。誰もがスターを目指してしのぎを削り、少しでも目立つように、みかん箱の上に立って顔を出す者もいたそうで、

そのため、走るのが速かった小林さんは、「速すぎて映らない」と助監督によく怒られていたそうですが、思い切り走って、鬱憤(うっぷん)を発散させていたのだそうです。

それでも、仕事が終わって、東映撮影所の門を出る時には、

毎日毎日歩くだけ。まいったなあ。でも俺だけひょっこり入ったんだから、神様はそんな悪戯することないはずだ。何か先にいいことあるはずだ。

と、自分に言い聞かせていたそうです。

ちなみに、後に小林さんは、

業界に縁故もありませんでしたので、誰かにすがるとかお願いするとかできなかったんです。ところが当時の撮影所というところは、ひとつの釜の中でごった煮状態なんですね。

役者だけでなく撮影のスタッフさんとか各部署の人が沢山いました。俳優同士では演じ方などを論じあったり、撮影スタッフならではの違った見方考え方などを知り、互いに切磋琢磨できたように思います。

今はそれぞれが異なったプロダクションに所属する個々の状態で、そういうごった煮の釜もなく、そういうことはありませんが、昔はコツコツやっていれば、誰かが声をかけてくれました。

と、語っておられました。

「小林稔侍が語る高倉健とは?50年夕食を共にした友人だった?」に続く

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