中学卒業後には、「日劇ダンシングチーム」に5期生として入団し、1952年、19歳の時には、「松竹」に入社された、石原まき子(いしはら まきこ)さん。1954年には、「日活」に移籍されると、日本人離れした八頭身の抜群のスタイルとクールな美貌でたちまち人気を博します。
「石原まき子(北原三枝)の生い立ちは?弟と二人きりで疎開していた!」からの続き
両親のいる東京が大空襲
そうこうしているうち、戦争は熾烈を極め、1944年12月25日と翌年1945年3月10日の2回、東京はアメリカ軍の大空襲(東京大空襲)に遭ったそうで、
石原さんは、
東京がやられている!
と、ラジオで聞き、東京にいる両親を思って号泣したそうです。
母と再会
実際、3月10日の空襲では、石原さんの目黒の実家が焼けてしまい、お母さんと弟が石原さんの疎開先であった隣町にある、おばあちゃんの兄の家に逃げ込んできたそうですが、
石原さんの疎開先とお母さんたちの疎開先は、一里(約4キロ)離れていたとはいえ、お互い、毎日、行き来するようになり、
母が近くにいる
と、そう思うだけで、石原さんは、十万もの味方を得たような気持ちになったそうです。
ただ、お母さんは、農家の出身でありながら、当時、身体を壊していたことから、畑仕事ができず、かといって、疎開者という気兼ねがあったことから、病弱の身でありながら、よその家で家事手伝いという重労働をせざるを得なかったそうで、
東京での空襲による心労に加え、身体的な疲労で、がっくりと肩が下がっており、石原さんは、そんなお母さんの後ろ姿を見るたびに涙し、そっと涙をぬぐったそうです。
若い頃は「日劇ダンシングチーム」から松竹に
その後、1945年8月15日、ようやく終戦を迎えると、石原さんは東京に戻り、いつ頃かは不明ですが、お姉さんに連れられて「宝塚歌劇団」の舞台を観に行ったところ、これに感激。
家計を助けるため、中学校卒業後には、NDT「日劇ダンシングチーム」に5期生として入団します。
しかし、そこでのレッスンは厳しく、また、戦後の食糧難による栄養不足などから身体を壊してしまい、1952年に退団。
ただ、同年、「松竹ニューフェイス」を受けると見事合格し、同年、「北原三枝(きたはら みえ)」の芸名で、小津安二郎監督作品「お茶漬の味」「カルメン純情す」「流れの旅路」などに端役で出演。
そして、1953年、「君の名は 第二部」でアイヌの娘役を演じると、映画は大ヒットを記録。
「君の名は 第二部」に出演するため、乗馬を練習中の北原三枝(石原まき子)さん。
その後も、
「東京マダムと大阪夫人」(1953年)
「新東京行進曲」(1953年)
「家族あわせ」(1953年)
「大学の龍虎」(1953年)
「初恋おぼこ娘」(1953年)
「シミ抜き人生」(1953年)
「旅路」(1953年)
と、立て続けに松竹映画に出演されたのでした。
日活へ移籍~看板女優として活躍
その後、1954年、石原さんは、「日活」に引き抜かれる形で移籍すると、
(「日活」は、戦時中、新会社であった「大映」に制作部門を譲渡するなど、経営危機に陥っていたのですが、1954年に活動を再開すると、新人の発掘、ニューフェイスの育成、他社の主役のみではなく脇役も勧誘するなど、積極的に役者の獲得に乗り出しており、石原さんもそのうちの一人だったのかもしれません。)
以降、
「青春ロマンスシート 青草に坐す」(1954年)
「若旦那と踊子」(1954年)
「腰抜け狂騒曲」(1954年)
「えくぼ人生」(1954年)
「女人の館」(1954年)※主演
「若き日の誘惑」(1954年)
「求婚三人娘」(1954年)
「女人の館」より。
「うちのおばあちゃん」(1955年)
「銀座二十四帖」(1955年)
「自分の穴の中で」(1955年)
「生きとし生けるもの」(1955年)
「愛のお荷物」(1955年)
「月は上りぬ」(1955年)
「次郎長外伝 秋葉の火祭り」(1955年)
「自分の穴の中で」より。(左から)三國連太郎さん、北原三枝(石原まき子)さん、宇野重吉さん。
「銀座の女」(1955年)
「緑はるかに」(1955年)
「おしゅん捕物帖 謎の尼御殿」(1955年)
「青春怪談」(1955年)※主演
「次郎長遊侠伝 天城鴉」(1955年)
「風船」(1956年)
「夏の嵐」(1956年)※主演
「流離の岸」(1956年)※主演
「夏の嵐」より。
「青春怪談」より。北原三枝(石原まき子)さんと三橋達也さん。
と、立て続けに日活映画に出演。
「女人の館」「青春怪談」「夏の嵐」「流離の岸」では主演を務められるなど、「日活」の看板女優として活躍されたのでした。
「石原まき子(北原三枝)の狂った果実ほか出演映画を画像で!」に続く
「流離の岸」より。北原三枝(石原まき子)さんと三國連太郎さん。