独特な存在感を放つ名脇役として、数多くのテレビドラマや映画に出演されてきた、山本学(やまもと がく)さんですが、もともとは、俳優志望だった訳ではなかったそうです。

「山本學の弟は山本圭と山本亘!父親は建築家!叔父は映画監督!」からの続き

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東野英治郎の口利きで俳優座養成所に入所

山本さんは、もともと、役者になる気はなく、建築家のお父さんを継ぐつもりだったそうですが、たまたま観た、お芝居の舞台装置に興味を持ち、

舞台装置の仕事がしたくて、弟・山本圭さんの友達だった東野英心さんのお父さん・東野英治郎さんに、

舞台装置は仕事として成り立つものですか?

と、相談すると、

東野さんからは、

飯は食えないよ

と言われ、

それは分かっています

と、答えられたそうです。

すると、今度は、東野さんから、

芝居を知っているか?演劇部じゃないのか

と、聞かれ、

山本さんが、演劇部ではなく、生物部と歴史研究会であることを伝えると、

それで芝居をやろうなんてのは駄目だよ。芝居を分からないと何もできない。まずは養成所に入れ

と、「俳優養成所」の試験を受けることを勧められたそうで、

山本さんは、あわてて本を読んだりするようになったそうですが、

東野さんが、

俺が試験官で座っているんだから大丈夫だ

と、言ってくれたそうで、

山本さんは、東野さんの口利きにより、1955年、18歳の時、「俳優座養成所」に7期生として入所されたのでした。

とはいえ、演技の勉強はしたことがない山本さんは、同期で「俳優養成所」に入った、田中邦衛さんや露口茂さんのエチュードを観て、

よくあんなことができるな

と、感心したそうですが、

それでも、観察だけは怠らなかったそうで、見よう見まねで演技を身につけていったのだそうです。

「裸の町」でデビュー

そんな山本さんは、サンドウィッチマン(胴体の前面と背中の両方に宣伝用の看板を取付けて宣伝する人)や新聞のかけとりのアルバイトをして生計を立てていたそうですが、

1957年に、映画「裸の町」の丁稚役で映画デビューされると、その後は、テレビの方が収入が良かったことから、ちょこちょことテレビドラマの仕事をされていたそうです。

しかし、ちゃんと役者の勉強を少ししなきゃ駄目だと考え、三年の養成期間が終わった後も、月謝を払うからもう一年残してほしいと、「俳優養成所」に頼まれたそうで、もう一年残られ、翌年の1958年、「俳優養成所」を卒業されたのだそうです。

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名バイプレイヤーの地位を確立

そして、同年、劇団「新人会」に入団され、同年、テレビドラマ「少年航路」、1959年、舞台「月明らかに星まれに」をはじめ、次々とテレビドラマや舞台に出演されると、

バイプレイヤーとしての評価を確固たるものにし、以降、コンスタントに、テレビ、映画、舞台に出演されています。

(劇団「新人会」は1972年に退団)

ちなみに、山本さんは、

新人会も最初は裏方で入りました。でも人が足りないということで役者もやらされて。そのまま運よく仕事が来ました。仕事に引きずられて役者にさせていただいたという気がします。

宇野重吉さんの演出は思い出深い。駄目出しがきつくて、男でも泣き出す役者もいました。でも僕には具体的に何も言ってくれません。公演の終了まで「これでいいのか」と考え続けてやっていました。

でも、演技ってそういうものなんですよね。「こうだからこうだ」という理屈じゃなくて、相手役とその情景をどう語るかという感覚の問題でしょう。相手役との間で感覚を測りながらやっていく。

でも、今はそういう作り方ではなくなってしまいました。先に形があって、相手と絡まなくても成り立ってしまう。自己主張のあるキャラクター同士が勝手なことをやっていて、そのキャラクターだけが存在している。

物語の中でこの人がこう変わっていくという面白さがなくて、筋ばっかり追っている。それではコマーシャルと同じです。想念と想念が勝手に行き違っている。

そうじゃなくて、ぶつかり合っているものが一つになって、そこに世界ができて、その中に苦悩や反発があり、その先に安住がある。今は先に反発あり、和合ありという結果が決まっているから、みんなパターンで芝居してしまっています。

と、語っておられました。

「山本學の若い頃は「愛と死をみつめて」「白い巨塔」でブレイク!」に続く

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