記者を目指し、本格的に修行に励む中、「劇団 民藝」がNHKに推薦してくれたことにより、テレビドラマのオーディションを受けると、見事主役に抜擢され、1956年、「この瞳」で女優デビューされた、冨士眞奈美(ふじまなみ)さんは、その後も清純派女優として順調に過ごしていたのですが・・・

「冨士眞奈美は昔は記者を目指していた!」からの続き

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清純派女優として人気を博すも・・・

ひょんなことから、いきなり、NHKのテレビドラマの主演で女優デビューされた冨士さんは、その後も、その日本人離れした美しい顔立ちから、1958年、19歳の時には、「資生堂化粧品」のCMに起用され、「資生堂化粧品」の専属モデルとなるほか、

1959年には、テレビドラマ「輪唱」に、馬渕晴子さん、小林千登勢さんとともに三姉妹役で出演すると、「NHK三人娘」と呼ばれ、清純派女優として注目されるようになり、暮らしもこの頃から豊かになったそうで、

お酒が好きだった冨士さんは、毎日天井がぐるぐる回るほどお酒を飲み、家に帰ってからも飲むなど、収入をほとんど酒代に使って、貯金もしない豪快な生活を送られていたそうです。


「輪唱」より。冨士さん(左)と小林千登勢さん(右)。

再び記者転身を目指していた

こうして、一見、人生を謳歌するような生活を送られていた冨士さんでしたが、

やがて、

学芸会とか文化祭の延長みたいなことをやってお金を頂いて、これが職業かしら

と、悩むようになったそうで、女優をやめようと決意。

ちょうどその頃、資生堂の「花椿」のCMをやっていたことから、企業文化誌「花椿」の広報部の方に、

記事を書くから記者にしてほしい

と、お願いされたそうです。

すると、その方は、

君は僕たちのお給料がいくらか知ってるか

と、言ったそうですが、

富士さんのお給料も同じような金額だったため、引き下がらなかったそうで、最後には、資生堂の社長さんに会わせてもらい、社長からも、

専属だし、花椿の記者にしてあげる

と、言ってもらったのだそうです。


資生堂「花椿」のポスターより。19歳の冨士さん。

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父親の他界で女優業を続けることに

これで、念願の記者になれると思った冨士さんですが・・・

ちょうどその頃、お父さんが「結核」にかかってしまい、同年、お父さんが他界。

冨士さんには、まだ小学生だった弟と妹が3人とお姉さんが2人いたことから、

私が働いて、一家を支えていかなきゃ

と、家族を養うため、記者(編集者)では無理だと、再び、女優で生きていこうと、気持ちを新たにされると、

以降、冨士さんは、数多くのテレビドラマや映画に出演するほか(3年後には、専属契約からフリーに)、1960年からは、音楽バラエティ番組「東は東」の司会を滝田裕介さんと務められるなど、バラエティ番組にも積極的に出演されたのでした。

ちなみに、冨士さんは、当時の生活について、

フリーになったらお金も入ってくるし、車も買って運転手さんもいてね。だけど、弟や妹が次から次から出て来るんですよ。だから一人になれないの(笑)。

と、明かされており、弟2人を大学に出されたほか、妹を結婚させるなど、父親的な役割を果たされたのでした。

「冨士眞奈美は細うで繁盛期の意地悪な小姑役でブレイク!」に続く

「東は東」より。(左から)冨士さん、上原ゆかりさん、滝田裕介さん、山下清さん。

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