中学生の時、「日活」撮影所で石原裕次郎さんを見て俳優を志すも、後輩の浜田光夫さんが早々に「日活」からデビューしたことで挫折を感じ、一旦はお芝居から離れていた、小野武彦(おの たけひこ)さんですが、大学2年生の時、友人の勧めで「俳優座」養成所の試験を受けて合格すると、どんどんお芝居にのめり込んでいきます。
「小野武彦の生い立ちは?少年時代から日活撮影所に出入りしていた!」からの続き
「俳優座」養成所でお芝居のおもしろさを知る
中学生の時には、後輩の浜田光夫さんに一気に水をあけられたことから、一旦は挫折し、お芝居から距離を置くも、大学2年生の時、「俳優座」養成所の試験を受けると、見事合格した小野さんは、
「俳優座」養成所では、何人かで同じテーマの短いエチュードを作って競い合うという実技の授業で、同期の前田吟さんの、モジモジしたところが一切ない潔い演技に刺激を受けるほか、
授業の終わりには仲代達矢さんや市原悦子さんの稽古を観て、お芝居を作るおもしろさ知るなど、どんどんお芝居にのめり込んでいったそうです。(大学も中退されています)
「俳優座」養成所卒業後は「文学座」に入座
そして、1966年、24歳の時、「俳優座」養成所を卒業されると、「俳優座」ではなく、「文学座」に入られます。
というのも、当時、「文学座」は分裂騒動があったことから、男優が少なかったそうで(30人くらい)、「文学座」のほうがチャンスがあると思われたこと、
また、「俳優座」で進路面談をしてくれた人から、
小野君は文学座のほうが合うと思う
と、言われたこと、
そして、(文学座の)杉村春子さんのファンだったことが、「文学座」を選んだ理由だったそうです。
(ただ、ある時、「セリフが覚えにくいなあ」とぼやいていたところ、杉村さんに聞かれてしまい、杉村さんに、「小野さん! あなた、千回やった?千回やったら、覚えられるわよ!」と、怒られたことがあったそうです(笑))
倉本聰から直接NHK大河ドラマ「勝海舟」の春山弁蔵役のオファーを受けていた
そんな小野さんは、同年、「美しきものの伝説」で初舞台を踏むと、翌年の1967年には「情炎」で映画デビューを果たし、
1969年には「文学座」を退座してフリーとなり、映画やテレビドラマの脇役として出演されると、
1974年には、倉本聰さん脚本のNHK大河ドラマ「勝海舟」の春山弁蔵役に抜擢され、一躍、脚光浴びられるのですが、
実は、小野さんが、地井武男さんと2人で、NHK局内の喫茶店でお茶を飲んでいたところ、角刈りの強面の人が、
ちょっといい?
と、近寄ってきたそうで、
小野さんは、
NHKのディレクターかな
と、思ったそうですが、
その人は、
倉本聰です
と、名乗り、
(小野さんは、倉本さんの名前は知っていたものの、顔は知らなかったため、声をかけられて大変驚いたそうです)
続けて、
来週からスケジュールどうなの? 君にピッタリの役があるけど
と、オファーを受けたそうで、
小野さんは、
あ、ちょうど大丈夫です!
と、即答でオファーを受けられたのだそうです。(ずっと大丈夫だったそうですが(笑))
こうして、小野さんは、NHK大河ドラマ「勝海舟」に出演されたのですが、倉本さんにはさらに、小野さんが主役の、「海軍伝習生・春山弁蔵」という回も書いてもらったそうで、小野さんは、倉本さんにとても感謝されているとのことでした。
「小野武彦は「踊る大捜査線」の「スリーアミーゴス」で大ブレイク!」に続く