9歳で2番目のお兄さんを、15歳で1番上のお兄さんを相次いで亡くし、しばらくは茫然自失の毎日を送っていたという、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんですが、やがて、音楽で生きてくことを決心し、そのために家を出ることを考え始めます。

「西郷輝彦は少年時代に2人の兄を相次いで亡くしていた!」からの続き

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音楽で生きていくため家出を考え始める

憧れ、心の支えだった1番上のお兄さんが他界し、しばらくは茫然自失の日々を送っていた西郷さんですが、現実問題として、2人のお兄さんが相次いで他界したことにより、いつしか、西郷さんが自営業の家の跡継ぎに据えられてしまったそうで、

15歳にして進路が決められ、夢も野望も目標も、瞬く間に消え去っていった虚しさから、やがて、西郷さんは、

音楽で生きていきたい

と、家を出ることを考え始めたそうです。

高校ではブラスバンド部でドラム

そんな西郷さんは、中学を卒業し、鹿児島商業高校に進学すると、早速、ブラスバンド部に入部し、亡くなった兄・勝晶さんから教えてもらったドラムをしたそうですが、

授業に出ていても、毎日、

音楽で生きていきたい、鹿児島にずっといるのではダメだ、東京に出たい、有名になりたい、なんとかしなければ・・・

と、もう家を出ることしか考えられなくなっていったそうで、

(家を出た後のことまでは考える余裕もなく)まずは、友人がいる関西まで行こう、行けばどうにかなる、なんとかなる、有名になればなんでもできるようになる・・・仮に最初から音楽ができなくても、例えば俳優で売り出せば、次は音楽ができる

などと、考える日々が続いたのだそうです。

大阪のジャズ喫茶に行くための計画を練っていた

そんな中、西郷さんが入学した年、鹿児島商業高校は、野球部が甲子園出場を果たしたことから、西郷さんらブラスバンド部は、応援団の一員として甲子園に向かうことになったそうですが、

西郷さんは、鹿児島商業高校は、(不謹慎ながら)一回戦で負けるだろうと予想しており、負けた後は、2、3日を費やしてジャズ喫茶(現在のライブハウス)に行こうと、密かに計画を練っていたのだそうです。

(ジャズ喫茶では、すでに売れているバンドのほか、ジャズ喫茶ごとに専属のバンドがいくつも存在し、メンバーを募集していたことから、家出を考えていた西郷さんは、とにかくどこかに潜り込み、なんとかメンバーになりたいと考えていたのでした。)

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「ナンバ一番」で生演奏を聴いて感動

しかし、蓋を開けてみると、困ったことに、鹿児島商業高校は「ベスト8」まで残る健闘。

そこで、西郷さんは、ある日、試合が終わると、宿舎に戻ってすぐ、大阪にあるジャズ喫茶「ナンバ一番」に行ったそうですが、

「ナンバ一番」では、「克美しげるとロックメッセンジャーズ」「片目のジャック」という曲を演奏していたそうで、テレビでしか見たことがない人が目の前で歌っているということが、とても嬉しく、

おお、これか、この世界か

と、感動。

そして、同時に、

これならオレでもやれる、やってみせる

と、意欲が湧いてきたのだそうです。

そして、西郷さんは、この時、「ナンバ一番」でヴォーカリストの募集コンテストがあることを知ったそうで、日付をしっかりと頭に焼き付けたのだそうです。

(ちなみに、西郷さんはこの後、「ナンバ一番」から宿舎に帰る道を迷い、到着した時にはすでに夜の9時を回っていたそうで、柔道をやっていた顧問の先生に叱られ、投げ飛ばされたそうです(笑))

「西郷輝彦は家出同然(高校中退)で鹿児島の実家を飛び出していた!」に続く

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