5歳の時に両親が離婚し、母親の辺見マリさんの実家で祖父母に厳しくも温かく育てられた、辺見えみり(へんみ えみり)さんは、4歳の時から習っていたクラシックバレエの猛練習に励んでいたそうですが・・・
「辺見えみりは幼少期に両親が離婚し母方の祖父母に育てられていた!」からの続き
プロのバレリーナを目指すも膝を壊し断念
辺見さんは、4歳の時、「松山バレエ団」に入り、クラシックバレエを習い始めると、プロを目指し、連日深夜まで猛練習に励んでいたそうで、中学2年生(14歳)の時には、ロシアの有名なバレエ団の留学試験に合格するのですが、膝を壊し、泣く泣く断念。
そのため、辺見さんは、何もすることがなくなってしまったのだそうです。
(これまでの食事制限の反動から、好きなものを1日8食食べるなど、すごい食べっぷりだったそうで、体重は一気に増え、最大で60キロにまでなったそうです)
スカウトされて芸能界入り
そんな辺見さんですが、バレエを断念する少し前、美容室で髪を切ってもらっている時、たまたま来ていた芸能関係者にスカウトされていたそうで、バレエをやめて、どうしようと思っていたことから、芸能界に入られます。
そして、1993年、16歳の時、「いちご白書」でテレビドラマデビューすると、
「いちご白書」より。辺見さん(左)と安室奈美恵さん(右)。
その後も、
「湘南女子寮物語」(1993)
「憎しみに微笑んで」(1993)
「クニさんちの魔女」(1993)
「家族ネットワーク」(1994)
「腕まくり看護婦物語4 慕情編」(1995)
と、立て続けにテレビドラマに出演。
また、女優業と並行して、1994年には、ファーストシングル「TEARS FOR TOMORROW」でアイドル歌手としてもデビューすると、
「きれいになろうよ」(1994年6月)
「泣いてるあなたが好きだと思った 」(1994年10月)
「子供を休もう」(1995年2月)
「いつも…大好き」 (1995年6月)
「愛しあおうよ」 (1995年12月)
と、こちらも立て続けにシングルをリリースし、アイドルとしても活動されます。
芸能界を辞めることを考え始める
しかし、
私はお芝居から始まって、アイドル路線というか歌とかをやってたんですけど、歌の営業にいっぱい行ったんですよね。
お客さんがそれこそ1人とか2人という中で、40分ぐらいのステージを1人でやらなきゃいけなかったり。それが1年ぐらい続いた時、これがずっと続くのかなあと思ってたんですよ。
と、芸能界は思っていたイメージとは違っていたことから、やがて、辞めることを考え始めたそうです。
泉ピン子に芸能界でやっていくことを進言される
そんな辺見さんは、1995年、テレビドラマ「腕まくり看護婦物語4 慕情編」に出演した際、
このドラマが終わったらもうやめよう
と、思っていたそうですが、
何も相談していないにもかかわらず、共演者の泉ピン子さんに、
あんた、やめちゃダメだよ
あんた、絶対芽が出るからやんなさい
と、言われたのだそうです。
それでも、辺見さんとしては、何の根拠もなかったことから、
何をもって言ってくれてるんだろう
と、半信半疑だったそうですが・・・
「腕まくり看護婦物語4 慕情編」より。(左から)泉ピン子さん、中村あずささん、辺見さん。
「スーパーJOCKEY」でブレイク
そのすぐ後に、「アデランス」のCMの仕事が舞い込んでくると、辺見さんはたちまち人気を博し、歌の営業のお客さんは3人から3000人に激増。
アデランスのCMより。
そして、バラエティのオファーも殺到し、1995年10月、「スーパーJOCKEY」に出演すると、かわいらしいルックスとは似ても似つかぬ毒舌ぶりでたちまち人気を博します。
さらに、辺見さんは「スーパーJOCKEY」の企画、「熱湯コマーシャル」で、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんとともに、鼻毛を描き、手ぬぐいに、赤いほっかむりをかむった「熱湯兄弟」の「熱湯次男」役を演じられると、(上島さんが「熱湯長男」役)
1998年には、「熱湯兄弟」として、上島竜兵さんとのデュエット曲「アッチッチサンバ」を発売するなど、一躍、バラドル(バラエティアイドル)として人気を博したのでした。
ちなみに、辺見さんは、2016年、自身のブログで、
私の人生を助けてくれた2人。(肥後克広さんと上島竜兵さん)20代の頃の、なんか孤独だった私と・・・しょっちゅう飲んでくれた2人。
感謝しかありません。本当にありがとう。
この日は、まことさんお休みだったけど。笑瓶さんもダチョウさんも20代の頃の恩師。
私はおぢさん達に、良くしてもらったな。
また、ああいう仕事したいなぁ。
と、綴っておられます。
「辺見えみりのデビューからの出演映画ドラマ舞台を画像で!」に続く
「スーパーJOCKEY」で「熱湯次男」に扮する辺見さん。