空腹と母親恋しさから、疎開先の信州(長野県)から脱走し、お母さんのいる東京・巣鴨の家へ帰り、お母さんと再会を喜んだ、愛川欽也(あいかわ きんや)さんですが、やがて、東京は空襲が激しくなり、再び、単身での疎開を余儀なくされたそうです。

「愛川欽也は少年時代に疎開先を脱走し一人で汽車に乗って帰宅していた!」からの続き

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戦争のため父親の会社が倒産の危機に

無事、一人で疎開先の信州から東京の家に帰って来た愛川さんですが、この時、栄養失調で軽い黄疸の症状が出ていたことから、家から10分ほど歩いたところにある病院に入院したそうです。

すると、お母さんは、日中は甲斐甲斐しく看病してくれたそうですが、夕方になると、お父さんがいつ来てもいいようにと、家に帰ったそうです。

というのも、お母さんは、お父さんに会いたいのはもちろんのこと、お父さんは、来るたびにわずかでもお金を置いていってくれたそうで、それがお父さんを待つ理由でもあったそうです。

しかし、戦争が激しくなるにつれ、お父さんが訪れてくる回数は少なくなっていき、ついに、ある夜のこと、久しぶりにお父さんが家に来ると、(戦争の影響で)会社がいつ倒産してもおかしくないことをお母さんに打ち明け、わずかなお金をお母さんに渡したそうで、

お父さんは、お母さんが作った大豆とひじきを煮たつまみを肴(さかな)にコップ一杯の二級酒を飲むと、随分とよれてきた茶色の背広に古くなったソフト帽をかぶり、終電で帰るべく、背中を丸めて出ていったのだそうです。

空襲を経験

その後、しばらくすると、戦火が激しくなり、毎日のように警戒警報のサイレンと空襲警報のサイレンがひっきりなしに響きわたるようになり、東京のどこかが爆撃されたそうで、

ラジオから「関東地区全域に空襲警報発令」の声が流れると、愛川さんはお母さんに連れられ、庭に掘った防空壕(ごう)に入ったそうですが、

(防空壕の中には、ゴザを敷き、古くなった茶箪笥(ちゃだんす)に水や乾パンなどを入れ、ろうそくとマッチと懐中電灯を置いていたそうです)

ドドーン、ドドドーンという地響きがしたそうで、防空壕の入り口の隙間から外をのぞくと、空が真っ赤に染まっていたのが見えたそうです。

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空襲が激しくなり再び一人で埼玉県に疎開することに

そんな中、やがて、これ以上、東京に住むことはできないと判断したお母さんにより、愛川さんは埼玉の田舎に住むお父さんの知人の家に預けられることになり、お父さんとお母さんに連れられて、その家を訪ねて行くと、

(お母さんは、愛川さんを片時も自分のそばから離したくはなかったそうですが、空襲を考えるとそうもいかず、珍しくお父さんが愛川さんを心配して知人に話をつけたこともあり、一日でも早く、愛川さんを安全なところに行かせたかったそうです)

そこの家は、ご主人とその妻、長男夫婦とその子供、次男と長女という、大家族だったそうですが、

そこの家のご主人が、

これだけいるから、一人や二人増えたって食いぶちは変わらねえよ

と、言ってくれたそうで、

実際、暮らし始めても、その言葉通り、みんなからはあまり関心を持たれず、愛川さんはかえってそれが気楽だったそうです。

(ちなみに、愛川さんは、その家に来た日、畑の道を東京へ向けて帰って行くお父さんとお母さんの背中を見送ったそうですが、これがお父さんを見た最後となったそうです)

「愛川欽也は少年時代「東京大空襲」を疎開で免れていた!」に続く

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