疎開先の信州(長野県)から東京に戻り、お母さんと再会を喜んだのもつかの間、東京の空襲が激しくなったことから、今度は、お父さんの知り合いがいる埼玉県に疎開することになった、愛川欽也(あいかわ きんや)さんですが、まもなく、お母さんに東京に連れて帰られると、東京では、国の命令による家の取り壊しが始まっていたといいます。

「愛川欽也は少年時代に東京で空襲に遭っていた!」からの続き

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東京に戻るも国の命令による家の取り壊しが始まっていた

東京の空襲が激しくなったため、お父さんの知り合いがいる埼玉県に一人で疎開した愛川さんですが、それから3ヶ月も経たないうちに、お母さんが迎えに来たそうで、愛川さんは、お母さんと一緒に東京に戻ったそうです。

(お母さんが愛川さんと離れていることに耐えられなくなったそうです)

ただ、東京の空襲は激しさを増しており、密集地に焼夷(しょうい)弾を落とされて一帯が焼け野原になってしまわないよう、国の命令で強制的に家の取り壊しが始まっていたそうで、

東京の自宅(巣鴨)に住むことができなくなった愛川さんとお母さんは、やむなくお母さんの遠い親戚を頼って疎開することになったそうです。

疎開先では味噌汁を食べ過ぎて嫌味を言われていた

こうして、愛川さんとお母さんは、茨城県東茨城郡圷(あくつ)村というところにある、初老の夫婦が住む、古くてあまり大きくない茅葺(かやぶ)きの家に疎開することになったそうですが、

お母さんが初婚の時に住んでいた家のある村から、少し離れたところにあったそうですが、お母さんとどういう関係の親戚なのかは分からなかったそうです)

おばさんが用意してくれる味噌汁は、質素ながらも、学童疎開の時の雑炊よりは、はるかに美味しかったことから、愛川さんは、つい、たくさん食べてしまい、そのたびに、おばさんから、「よく食べるね」と嫌味を言われたそうです。

(嫌味を言われるたびにお母さんは謝り、着物をどこかで売ってはお金を作り、そのお金でおばさんに食費などを支払っていたそうです)

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「東京大空襲」を免れていた

そんな中、いつも、田舎の人たちは外に出て、東京の空がアメリカ軍の爆撃で真っ赤に染まるのを見ていたそうですが、ついに、1945年3月10日午前0時8分、約2000トンもの焼夷(しょうい)弾を装備した約300機もの爆撃機「B29」が東京の下町に無差別に爆撃を開始すると(「東京大空襲」)、

空襲は3月10日の未明まで続き、2時間半の爆撃により東京下町一帯は焼き払われて廃墟と化し、死者10万人、負傷者100万人という、かつてない最悪の空襲となったそうで、愛川さんは、そんな東京の夜空がいつもよりも赤く明るく朝まで燃えているのを見たそうです。

(「B-29」の攻撃による出火は、強風にあおられて大火災となったそうですが、米軍は、風の強い日を見計らって、木造家屋が密集する東京・下町一帯に焼夷弾を投下し、民家を焼き尽くしたそうです)

ちなみに、アメリカ軍の空襲は、その後、名古屋(3月12日)、大阪(3月14日)、神戸(3月17日)、名古屋(3月19日、20日)、北九州(3月29日)、東京山手地区(4月13日)、東京・横浜・川崎(4月15日)と続き、その後、地方の中小都市への空襲を経て、1945年8月15日午前1時の東京西多摩郡への空襲で、ようやく終了したのだそうです。

「愛川欽也は終戦後は家が焼け秋田で居候生活をしていた!」に続く

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