学校での成績が優秀だったことから、友達に勉強を教え、それがきっかけで、お母さんと二人で暮らす部屋を借りることが出来たという、愛川欽也(あいかわ きんや)さんは、その後、埼玉県に引っ越しすると、ここでも成績優秀だったそうで、進学校として有名な浦和高校に合格すると、家計を助けるため弁護士になろうと思ったといいます。

「愛川欽也は小学生にして部屋を借りる交渉をしていた!」からの続き

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中学生の時には銀行の支店長の申し出で陽の当たる部屋に引っ越し

11歳の時、自ら、宿屋をやっている友達の親と一番安い部屋を貸してもらうよう交渉し、ようやく、お母さんと水入らずの暮らしが出来るようになったという愛川さんですが、

その後、中学生になると、正月に学校で書いた愛川さんの書初めの字を気に入ったという、ある銀行の支店長から、使っていない自宅(秋田県湯沢で屋敷町と呼ばれていた根小屋町)の離れに安い家賃で住んでもいいという申し出があったそうで、秋田に来て初めて、陽の当たる部屋に住むことができたそうです。

埼玉県大宮に引越

そして、この頃は、愛川さんは、成績がトップで、先生もクラスの友達も愛川さんに一目置くようになり、イジメられることもなく、随分、暮らし向きは良くなったそうですが、

戦争が終わって2年過ぎても、金銭的な事情から、もともと居た東京・巣鴨に帰れずにいたことから、少しでも東京へ近づきたいと思っていたお母さんが、今度は、遠縁が住む埼玉県の大宮へ引っ越し先を見つけたそうで、大宮では、氷川神社の参道から一歩入ったところにある家に引っ越したそうです。

(愛川さんは、転校が楽な私立の中学校に編入したそうです)

母親はいつもわがままを受け止めてくれていた

すると、しばらくして、急に近所で野球が流行り出し、愛川さんも野球に憧れるようになったそうですが、革でできたグローブは高くてとても買うことができず、

お母さんが、

ごめんね。来月お金が入ったら誰にも負けないような、いいグローブを買ってあげるよ

と、申し訳なさそうに言うと、

それを聞いた愛川さんは、お母さんにこれ以上無理をさせたくないと、野球自体をやりたいと思わなくなったそうです。

実は、愛川さんは、小さい頃、欲しい物があると、わがままを言ってお母さんを困らせたそうですが、

お母さんは、たとえできなくても、

来月にはなんとかしてあげるからね

というのが口癖だったそうで、

ようし、ちょっと待っててね。来月にはね

とお母さんが言うと、なぜか、物が欲しいという欲求は収まり、不思議と素直にあきらめることができたそうで、それほど欲しいと思わなくなったそうです。

進学校・浦和高校に合格したことから弁護士を目指すことに

さておき、愛川さんは、中学3年生の時、担任の先生から、浦和にある進学校・浦和高校を受験してはどうかと勧められ、この助言に従い、浦和高校を受験したところ、見事合格したそうで、

(勉強はあまり好きではなかったそうですが、成績はクラスで5本の指に入るほど優秀だったそうです)

将来を考えた時、せっかく良い高校に入れたのだから、卒業したらいい大学に入って弁護士になろうと思ったそうです。

(理数系は苦手だったため科学者は無理、血を見るのが怖いから医者はダメ、と消去法の結果、大学は法科に行って、弁護士になるのが自分には向いていると思ったのだそうです)

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母親は激務から日に日にやつれていた

そこで、お母さんに、

母さん、僕は将来弁護士になるよ。早く働いて家にお金を入れたいけど、アルバイトしながらでもいいから大学に行くよ。

と、伝えると、

お母さんは、

アルバイトなんかしなくたって、母さんが学費ぐらい稼いであげるよ

と、言ってくれたそうですが、

お母さんは、昼は町の食堂で働き、夜は病院の夜間家政婦を1日おきに務め、空いてる時間に仮眠するという生活をして、東京・巣鴨へ帰るために貯金を続けており、日に日にやつれていっていたそうで、

愛川さんは、お母さんが心配になるも、どうすることもできず、お母さんの苦労をなるべく見ないようにしていたのだそうです。

「愛川欽也は高校時代フランス映画に魅了され俳優の道に飛び込んでいた!」に続く

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