デヴィッド・ボウイさんに映画「戦場のメリークリスマス」の出演オファーをすべく、手紙と脚本を送ると、すぐに、「大いに興味がある」という電報が届き、1980年10月、ボウイさんに会いにニューヨークを訪れた、大島渚(おおしま なぎさ)さんは、すぐに話しがまとまったそうですが、ボウイさんからは、思ってもいないことを指摘され、ハッとしたといいます。

「大島渚はデヴィッド・ボウイへのオファーをCM宝酒造「純」を見て決めていた!」からの続き

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デヴィッド・ボウイが「戦場のメリークリスマス」出演を快諾

ニューヨークを訪れた際、ちょうど、ボウイさんがニューヨークのブロードウェイ舞台「エレファント・マン」に出演中だったことから、この舞台を観ようとボウイさんに連絡を取ると、ボウイさんからは、すでにチケットは手配してあると言われて感激し、舞台でのボウイさんの演技を観ると、さらに驚いたという大島さんですが、

舞台を観た翌日、ボウイさんに初めて会うと、ボウイさんは、大島さんの映画では「絞死刑」が好きだと言い、ぜひ、「戦場のメリークリスマス」をやりたいと熱望したそうで、すぐに、具体的なスケジュールとダイアローグ(脚本の中の会話の部分)の話になったそうです。

(大島さんは、後に、「(デヴィッド・ボウイさんが)僕の映画をよく観てくれていたみたいで」と嬉しそうに語っていたそうです)

デヴィッド・ボウイからは日本人独特のニュアンスが英語圏の観客には理解できないと指摘されていた

実は、大島さんがボウイさんに送った脚本は、大島さんが書いたものをそのまま英訳したものだったため、日本人独特のニュアンスは、海外の人には理解しづらく、英語のセリフとしては使えなかったそうで、

(これは、日本人が脚本を書いて英語圏の映画を撮る際、よく直面する問題なのだそうです)

ボウイさんは、親切にも、その脚本を英語のセリフとして成り立つように書き直してくれる脚本家の候補を挙げてくれ、大島さんもそれについて検討することを約束したのだそうです。

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日本人独特のニュアンスを英語圏の観客には理解できるよう脚本を手直ししていた

こうして、1982年7月、脚本の最終稿の段階で、ボウイさんが推薦してくれた、脚本家のポール・メイヤーズバーグさんによってダイアローグの見直しが行われたそうですが、ポールさんからは、言葉のニュアンスほか、会話の形式も修正を要求されたそうで、

例えば、劇中、問いかけに対し、それには答えずに次の話に移る、というシーンがいくつかあったそうですが、それにはすべて明確な回答が必要であること、また、問いかけられた内容について、すぐには答えず、別の話題が続いた後で、思い出したように、先程の問いかけに答える、という形式もやめるように進言されたそうです。

(それだけ時間が空いてしまうと、観客は何の話をしているのか分からなくなるとのこと)

それを聞き、大島さんは、初稿を読んだロバート・レッドフォードさんは、さぞかし分かりにくかったのではないかと、遅ればせながら気づいたそうですが、それはデヴィッドボウイさんも同様で、それでも出演オファーを快諾したボウイさんは、それほど、大島さんの作品に言葉を超えた魅力を感じていたことが伺えます。

「大島渚はジェレミー・トーマスに「戦メリ」のプロデュースを託していた!」に続く

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