「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」など、日本のみならず、世界でも一大センセーションを巻き起こす作品を次々と製作し、映画界だけでなく社会にも大きな刺激を与え続けた、大島渚(おおしま なぎさ)さん。

今回は、そんな大島渚さんの、若い頃の活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。

大島渚

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大島渚は20代の時に「愛と希望の街」で映画監督デビューすると「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒット

27歳の時に自作シナリオ「愛と希望の街」(「鳩を売る少年」)で映画監督デビュー

大島渚さんは、1954年4月、22歳の時、「松竹」に入社すると、大庭秀雄監督、野村芳太郎監督など、様々な監督の下で助監督を務めながら、脚本を書きためたそうで、

1959年、27歳の時には、短編映画「明日の太陽」で初の監督を務めると、続く同年9月には、自作のシナリオ「鳩を売る少年」が「愛と希望の街」に改題されて映画監督デビューを果たします。

「愛と希望の街」
「愛と希望の街」より。

28歳の時に「青春残酷物語」「太陽の墓場」が大ヒット

そして、大島渚さんは、1960年、28歳の時には、安保闘争の中、やり場のない憤りを抱えた若者が破滅へ向かっていく姿を描いた「青春残酷物語」、大阪のドヤ街を舞台に、非人間的な状況の中で非人間的に生きる人間の姿を描いた「太陽の墓場」と、立て続けに発表すると、映画は大ヒットを記録。

この大ヒットにより、、一躍、脚光を浴びた大島渚さんは、“松竹ヌーベルヴァーグの騎手”と呼ばれるようになったのでした。

28歳の時に「忘れられた皇軍」などテレビのドキュメンタリー作品で高い評価を受けていた

また、大島渚さんは、同年(1960年)には、安保闘争を描いた「日本の夜と霧」を発表するのですが、松竹により、上映を無断で打ち切られてしまい、

これが原因で、松竹を退社すると、1961年、29歳の時には、独立プロダクション「創造社」を設立するも、その後は、なかなかヒット作に恵まれませんでした。

ただ、そんな中でも、「忘れられた皇軍」などのテレビのドキュメンタリー作品で高い評価を受けるようになります。

大島渚が30代の時は「絞死刑」「少年」「儀式」が高い評価を受けていた

そして、1965年には、「悦楽」で3年ぶりに劇場映画への復帰を果たすと、その後は、独立プロのATG(日本アート・シアター・ギルド)と業務提携して、「絞死刑」「少年」「儀式」などを次々と発表し、高い評価を得ます。

「絞死刑」
「絞死刑」より。

大島渚が40代の時は「愛のコリーダ」が大ヒットするほか「愛の亡霊」がカンヌ国際映画祭で最優秀監督賞

44歳の時に「愛のコリーダ」が大ヒット

大島渚さんは、1973年7月に「創造社」を解散すると、1975年には新たに「大島渚プロダクション」を設立し、1976年、44歳の時には、男女の愛欲の極限を描いた作品「愛のコリーダ」を発表すると、映画は一大センセーショナルを巻き起こす大ヒットを記録。

この大ヒットにより、大島渚さんは名監督として国際的な評価を確固たるものにしたのでした。

「愛のコリーダ」
「愛のコリーダ」より。

44歳の時に書籍「愛のコリーダ」が「わいせつ物頒布罪」で起訴されていた

ただ、脚本や劇中のスチール写真を収めた同名の書籍「愛のコリーダ」が出版されると、その一部がわいせつ文書図画に当たる「わいせつ物頒布罪」として、警視庁に押収され、東京地検から起訴されてしまいます。

それでも、1979年10月、47歳の時には、無罪が確定し、大島渚さんは、記者会見を開いています。

「愛のコリーダ裁判」で無罪判決を受け記者会見する大島渚
「愛のコリーダ」裁判で無罪判決を受け記者会見する大島渚さん。

46歳の時に「愛の亡霊」が「第31回カンヌ国際映画祭」で最優秀監督賞を受賞

そんな中、大島渚さんは、1978年、46歳の時には、前作「愛のコリーダ」同様、性愛をテーマにした「愛の亡霊」を発表すると、「第31回カンヌ国際映画祭」で最優秀監督賞を受賞する快挙を遂げています。

「愛の亡霊」
「愛の亡霊」より。吉行和子さんと藤竜也さん。

47歳の時に政治色の濃い作品「日本の黒幕」のオファーを受け快諾していた

また、大島渚さんは、1979年、47歳の時には、性愛をテーマにした、前作の「愛の亡霊」、前々作「愛のコリーダ」とは打って変わって、政治色の濃い作品「日本の黒幕」のオファーを受けると、これを快諾。

そんな中、ストーリーで登場する少年テロリスト役には、まだ当時17歳で、無名だった三上博史さんが、直接、自身を売り込んできたことから、大島渚さんは、三上博史さんを採用するのですが、

出来上がってきた脚本家の高田宏治さんの脚本が気に入らず、結果的に、自分たちで脚本を書くことになったのですが、それも納得がいかなくなり、

「東映」に公開の延期を求めるも、受け入れられず、最終的には、「日本の黒幕」の監督を降板しています。

(三上博史さんには詫び状を送ったそうです)

ちなみに、大島渚さん降板後、「日本の黒幕」は、降旗康男監督に引き継がれ、公開されたのですが、興行は振るいませんでした。

大島渚が50代の時は「戦場のメリークリスマス」が大ヒット

その後、大島渚さんは、1983年、51歳の時には、第二次世界大戦下のジャワの日本軍捕虜収容所を舞台に、日英軍人の衝突と交流を描いた「戦場のメリークリスマス」を発表すると、映画は興行収入9億9千万円を売り上げる大ヒット。

大島渚さんは、この「戦場のメリークリスマス」で「第36回カンヌ国際映画祭」の「パルム・ドール(グランプリ)」にノミネートされるほか、「キネマ旬報賞監督賞」「毎日映画コンクール作品賞・監督賞・脚本賞」など、数々の栄えある賞を受賞するなど、一躍、世界中にその名を轟かせたのでした。

「戦場のメリークリスマス」
「戦場のメリークリスマス」より。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ役にロバート・レッドフォードをキャスティングするも断られていた

ちなみに、当初、大島渚さんは、ジャック・セリアズ陸軍少佐役に、ロバート・レッドフォードさんをキャスティングしていたそうですが、ロバート・レッドフォードさんには、遠回しにオファーを断られていたといいます。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ役にデヴィッド・ボウイが良いと確信していた

そんな大島渚さんは、1980年に、日本の宝酒造「純」のCMに出演していた、英国のロック歌手・デヴィッド・ボウイさんを見て、ジャック・セリアズの持つ精神的な強さ、貴族性、カリスマ性を感じて、デヴィッド・ボウイさんがいいと確信し、オファーを出したところ、デヴィッド・ボウイさんは即答で快諾してくれたといいます。

「宝酒造「純」のCMに出演するデヴィッド・ボウイ
宝酒造「純」のCMより。

また、デヴィッド・ボウイさんからは、英語のセリフについて、アドバイスを受けていたといいます。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」のプロデュースをジェレミー・トーマスに託していた

こうして、デヴィッド・ボウイさんがセリアズ陸軍少佐役に決まると、その直後には、以前から大島さんのファンだったという、イギリスのプロデューサーのジェレミー・トーマスさんが、是非、自分にと名乗り出てきたそうで、

大島渚さんは、1981年1月、フランスの「アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」へ審査員として参加した帰りに、ジェレミー・トーマスさんと面会すると、ジェレミー・トーマスさんを気に入り、「戦場のメリークリスマス」のプロデュースを託す決意をしたのだそうです。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」の為に全財産をはたき借金していた

こうして、主演のジャック・セリアズ陸軍少佐役にデヴィッド・ボウイさん、プロデューサーにジェレミー・トーマスさんが決定したことで、ようやく、「戦場のメリークリスマス」の製作が進み始めたのですが・・・

まだ、資金調達という大きな問題が残っていたといいます。

そんな大島渚さんは、金策に奔走し、「テレビ朝日」と「松竹」の出資が決まるのですが、それでもまだ足りず、自身の脚本執筆料、演出料を現物出資するほか、全財産をはたいたうえ、自宅を担保に入れて個人的に銀行から借金し、なんとか、国内で負担する資金は調達できたのだそうです。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」製作にニュージーランドのタックス・シェルター制度を利用していた

しかし、今度は、イギリス側が負担する製作費の資金調達に難航し、「戦場のメリークリスマス」は、もはや、製作中止かと思われたのですが・・・

「タックス・シェルター」という制度を利用することを、ジェレミー・トーマスさんに提案されたといいます。


大島渚は「戦場のメリークリスマス」では、緒形拳、滝田栄、沢田研二が降板していた

こうして、大島渚さんは、国内、海外共に資金調達の問題をクリアしたのですが、キャスティングでも様々な問題が生じたそうで、当初、ハラ軍曹役で出演予定だった緒形拳さん、ヨノイ役で出演予定だった滝田栄さんが共に降板し、

ヨノイ役でオファーを出していた沢田研二さんも、お互いのスケジュールの都合が合わず、物別れに終わってしまったそうです。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」でビートたけしに出演オファーをしていた

その後、大島渚さんは、ヨノイ役、ハラ軍曹役共に、手当たり次第といってもいいくらいの勢いで出演者探しをしたそうですが、どれも話がまとまらず、キャスティングは難航。

そんな中、ふと、以前、テレビ番組で共演した、ビートたけしさんを思い出し、ビートたけしさんにハラ軍曹役のオファーをしたところ、ビートたけしさんは演技に自信がなかったため、迷ったそうですが、最終的に出演を決意したそうです。

大島渚は坂本龍一の演技を見て「戦場のメリークリスマス」の成功を確信していた

こうして、ハラ軍曹役にビートたけしさんが決まると、大島渚さんは、その後、ヨノイ役に、ミュージシャンの坂本龍一さんを起用しているのですが、坂本龍一さんの殺気と色気に「戦場のメリークリスマス」の成功を確信したといいます。

「戦場のメリークリスマス」
「戦場のメリークリスマス」より。坂本龍一さん。

大島渚は「戦場のメリークリスマス」に三上博史も端役で起用していた

また、大島渚さんは、映画「日本の黒幕」で主人公の少年テロリスト役を演じる予定が、大島渚さんが脚本の最終段階で降板したためお流れとなった三上博史さんも、「戦場のメリークリスマス」で、一兵卒(端役)で起用しています。

(三上博史さんは、当初、端役に納得がいかなかったそうですが、寺山修司さんに背中を押され、端役でも「戦場のメリークリスマス」に出演する決意をしたそうです)

大島渚の「戦場のメリークリスマス」の揺れるキスシーンは機材トラブルだった

ちなみに、映画「戦場のメリークリスマス」では、物語のラスト、反抗的な俘虜長を処刑しようと日本刀を抜いたヨノイ大尉(坂本龍一さん)に、イギリス人俘虜のセリアズ(デヴィッド・ボウイさん)が近づいて頬にキスをするという、映画史に残る有名なシーンがあるのですが、このシーンは画面がわずかに揺れ動いています。

ただ、これは、意図的に行った演出ではなく、撮影機材のトラブルにより偶然生じたものだったといいます。

「戦場のメリークリスマス」
「戦場のメリークリスマス」より。ヨノイ大尉(坂本龍一さん)の頬にキスするセリアズ(デヴィッド・ボウイさん)。

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大島渚の50代(戦場のメリークリスマス以降)~80代(死去)

その後も、精力的に映画を取り続けていた大島渚さんですが、そのかたわら、討論番組「朝まで生テレビ!」では、作家の野坂昭如さんとしばしば激論を戦わせており、1990年10月、58歳の時、妻・小山明子さんとの結婚30周年パーティーでは、なんと、野坂昭如さんと公衆の面前で殴り合いをしています。



そんな大島渚さんですが、1996年、63歳の時には「脳出血」で倒れ、3年に及ぶ懸命なリハビリの末、回復するも、2001年、69歳の時には「十二指腸潰瘍せん孔」で再び倒れ、「要介護5」の認定を受けていたといいます。

その後、妻・小山明子さんの献身的な介護により、2010年10月30日、78歳の時には、金婚式に出席できるまでに回復したそうですが、2013年1月には、肺炎のため、80歳で他界されたのでした。


お読みいただきありがとうございました

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