興行で九州へ向かう際、乗っていた列車が爆撃されるも、お母さんに抱えられて飛び降り、九死に一生を得たという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、やがて、東京の街も戦争一色となり、両親とともに奈良県に疎開すると、疎開先の奈良から、大阪、京都、神戸の舞台に出演したそうですが、そんな中、軍から特攻隊の慰問を要請されたそうです。

「中村メイコは子役時代に列車が爆撃を受けるも九死に一生を得ていた!」からの続き

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奈良県生駒郡富雄村に疎開

列車が爆撃を受ける中、九死に一生を得た翌年、1943年春には(中村さん8歳)、東京の街も戦争一色となったことから、中村さん一家は、お父さんの提案で奈良県に疎開することになったそうですが、

(奈良には文化財がたくさんある為アメリカは爆撃しないだろうと)

何も決めずに奈良に向かい、大阪から奈良電(現在の近鉄奈良線)に乗ると、お父さんが、のどかな良い駅だからと言って、知らない駅で降り、突然、その田舎の駅のプラットホームで、

どなたか、親子三人ほどが暮らせるお離れか何かお持ちの方はいらっしゃいませんか!

と、3回ほど大きな声で叫んだそうです。

すると、「あ、どうぞ」と、言ってくれた人がおり、奈良県生駒郡富雄村に住むことになったのだそうです。

機銃掃射を受け一緒に歩いていた友人が死去

こうして、奈良県生駒郡富雄村に住むことになった中村さんですが、すぐそばの大阪は頻繁に空襲があったにもかかわらず、富雄村はのどかだったそうで、時々、辛いこともあるものの、中村さん一家の生活はそれほど悲惨ではなかったそうです。

ただ、そんな中でも、今でも忘れられない体験をしたといいます。

ある日のこと、国民学校に通う途中、通学路だった、富雄川の川沿の土手を友達と歩いていると、銀色の戦闘機が物凄い低空飛行をしてきたそうで、

中村さんは、思わず、川に飛び込み助かったそうですが、一緒に歩いていた友達は、土手にいたままだったため、機銃掃射を受け、あっと言う間に亡くなってしまったのだそうです。

(※機銃掃射とは、機関銃で敵を薙(な)ぎ倒すように上から下に向けて射撃することで、特に戦闘機が地上の人間や建物に向かって機銃で射撃すること)

軍から特攻隊の慰問の要請を受けていた

そんな中村さんは、疎開先の奈良から、大阪、京都、神戸の舞台に出演し、空襲の焼夷弾(しょういだん)で劇場が燃えている中でも、共演者とともに、

肩を並べて兄さんと~♪

と、「兵隊さんよありがとう」という歌などを歌っていたそうですが、

(古い芸能界の習慣で、最後のお客さんが劇場を出て行くのを見送るまで歌を歌っていなければならなかったそうです)

敗戦色が濃厚になった1945年に入ると、軍から、特攻隊の慰問に行くよう要請されたそうです。

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特攻隊の慰問では軍事機密保持のため移動中は目隠しをされていた

ただ、反戦主義だったお父さんは、まだ幼い中村さんを特攻隊の慰問に行かせることに大反対。一方、お母さんは、むしろ、お役に立つのならと賛成だったそうですが、いずれにしても、軍からの要請は他の仕事と違って断ることは許されず、中村さんは慰問団に加入したそうです。

すると、中村さんは、軍属待遇だったため、戦闘機や潜水艦に乗せられて戦地(特攻隊基地)に向かったそうですが、軍事機密保持という理由から、行き先が分からないように、ずっと目隠しをされていたそうで、飛行機がどこから飛び立ち、どのくらいの距離を飛び、どこに着陸したかは分からなかったそうです。

(少なくとも6回は慰問に出かけたそうですが、今から思うと玉砕寸前のアッツ島やトラック島だったのかもしれないとのことでした)

「中村メイコは淡谷のり子の影響でつけまつ毛をするようになっていた!」に続く

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