特攻隊の慰問では、他の慰問団の女性たちが皆もんぺ姿だった中、一人だけワンピース姿につけまつ毛という、女の子らしい格好で行ったという、中村メイコ(なかむら めいこ)さんは、歌も軍歌ではなく、オリジナル曲を歌って、特攻兵たちに喜ばれたそうで、そのうち、軍から指名されるようになったそうですが、その理由はあまりにも酷だったといいます。

「中村メイコは淡谷のり子の影響でつけまつ毛をするようになっていた!」からの続き

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特攻隊の慰問では歌も軍歌ではなくオリジナル曲を歌っていた

特攻隊の慰問では、他の若い女性歌手たちが皆モンペ姿だった中、一人だけワンピース姿だったという中村さんですが、歌う歌も、本来ならば、戦意高揚のため、軍歌などを歌わなければならなかったところ、

ナンセンス作家であるお父さんの中村正常さんから、軍歌は、まだ幼く歌詞の意味が分からない中村さんが歌っても人の心を打つことはできないから、何でもいいから自分の好きな歌うよう言われたそうです。

特攻隊員たちは幼い中村メイコの歌に感涙していた

そこで、中村さんは、お父さんの前で、エノケンこと榎本健一さんと一緒に歌った、「ダイナ」という曲を、

ダンナ のませてちょう ダイナー おごって ちょうダイナー たんとは呑まない ね、いいでせう ダンナ 盃 ちょう ダイナー

と、歌い、どうかと尋ねると、

お父さんには、この歌はアメリカの歌なのでちょっとまずいかもしれない、と言われ、結局、お父さんが作詞したオリジナルの歌を歌うことになったそうで、

次の慰問の際、

おにわの桜が咲きました とおい戦地のおにいさん 赤い花びらふたつみつ 日本の春をおくります 寝ないで作ったこの人形 にいさんお手柄たてたとき 坊やと思って抱き上げて いっしょにバンザイ頼みます

と、歌ったところ、兵隊さんたちはボロボロと泣きながら聴いてくれたのだそうです。

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若く美しい女優の慰問は特攻隊員には酷だった

ところで、中村さんは、当初、清水美佐子さんという若い女優と一緒に慰問活動をしていたそうですが、

そのうち、軍から、

若くて美しい清水美佐子さんはいい、メイコちゃんだけにしてください

という、注文が入ったそうです。

というのも、明日死ぬという時に、きれいな女性を見ても虚しくなるだけで、何の慰めにもならないことから、次第に無表情になっていく特攻隊員を奮い立たせるには、小さな子供を送り込むことが一番効果的だと考えられたからなのですが、

(ただ、はっきり敗戦を悟る頃には、郷里の妹や弟を思い出して、操縦桿(かん)を握れなくなるので、子供は連れて来ないでほしいと、特攻隊員には涙ながらに言われたそうです)

中村さんは、後に、この事実を知ったそうで、

結果的に、とても悲しい戦争の道具にされた私。いいことをしたのか。悪いことをしたのか。大人になってすべてを聞かされた時、私は珍しくシリアスになって考え込み、深く落ち込みました。

特攻隊の方々は、みなさん、「今度、行きます」「行きます」 と言う。 子供心に不思議でした。 「行ってまいります」とは言ってはいけない。 帰ってこられないから。「行きます」としか言えないという話を聞いて、幼心に本当にかわいそうだと思いました。

私が歌ったり、踊ったりするのを、じっと見ているんですが、どういう思いだったんでしょうね。みなさん、すごくハンサムで、きれいな澄んだ目をしていました。

「もう色気も、美味しいものも要らない」「子供の頃の気持ちに戻りたい」「死ぬ前に子供に会いたい」「子供を残したかった」・・・

慰問に行くと、子供心に伝わってくるものがありました。大学生の学徒出陣もありましたし、海軍の予科練、陸軍の幼年学校や士官学校へは優秀な方々が進まれていました。

私よりも、少し年上だっただけなのに・・・。 次の世代のために犠牲になると納得していたのかもしれませんけど、胸が詰まる思いがします。

と、語っています。

ちなみに、当時、特攻基地には、中村さんのほかにも、田中絹代さん、淡谷のり子さん、森光子さん、高峰三枝子さん、高峰秀子さんなど、多くの女優や歌手が慰問団として軍の命令で派遣されていたそうですが、戦後、みな口を揃えて「あんな辛いことはなかった」と顔を曇らせながら語っていたといいます。

「中村メイコは終戦後は進駐軍を慰問し英語の歌を歌っていた!」に続く

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