三木鶏郎さんからは、会社「冗談工房」の社長を任されるほか、日本初のディズニー映画の制作にも誘われるなど、若手だったにもにかかわらず、どんどん仕事を回してもらっていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、三木さんからは葬儀委員長も頼まれていたといいます。

「永六輔は「わんわん物語」の出演交渉を国会議員の浅沼稲次郎にもしていた!」からの続き

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三木鶏郎からは葬儀委員長も頼まれていた

会社「冗談工房」の社長を頼まれるほど、三木鶏郎さんから信頼されていたという永さんは、何度も、

この(糖尿病)病気は先がないから、葬儀委員長は君がやってくれ。葬儀の方法も決めておきたい

とも、頼まれていたそうで、

その度に、永さんは、

そんなっ。まだまだずっと先の話ですよ

と、言っていたそうですが、

それでも、三木さんは、

キリスト教的な葬儀にしてお経はやめて欲しい。

ソプラノの『アメイジング・グレイス』が流れる中、出棺したい。

などと、自身の希望を永さんに話していたそうです。

(三木さんは、戦争で餓えを経験していたことから、売れっ子になってからの食欲は物凄く、それがたたり、40代の初めには糖尿病の症状が悪化したそうで、このことがきっかけとなり、この病気と徹底的に向き合おうと、毎日、自分で尿検査をして日記をつけ始め、糖尿病を楽しもうと「糖尿友の会」 を立ち上げ、機関紙まで作っていたそうですが、その一方で、自分はもう長くはないかもしれないと感じていたそうです)

三木鶏郎の遺族には「アメイジング・グレイス」を反対されていた

その後、三木さんは、60代に差し掛かる頃には、徐々に仕事を減らして第一線を退き、糖尿病に良いと考えていた、気候の暖かいサイパンやハワイに別荘を建て、ゴルフやクルーザーを楽しむ、悠々自適の生活をしていたそうですが、1994年には、ついに80歳で他界。

そこで、永さんは、やはり、三木さんの遺言を実行したいと思い、まずは、ソプラノ歌手の中島啓江さんに、三木さんの葬儀で「アメイジング・グレイス」を歌ってもらえないかと依頼すると、中島さんは快諾してくれたそうですが・・・

三木さんの遺族からは、「うちは仏教だから、そうはいきません」と反対されてしまったのだそうです。

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三木鶏郎の仏式葬儀で中島啓江に「アメイジング・グレイス」を歌ってもらっていた

それでも、三木さんとの約束を果たしたいと思った永さんが、中島さんに、

お経が始まったら、一番後ろから勝手に歌いながら、祭壇の前に出てきて最初にお焼香してよ。僕がその後に続いて、お焼香するからね

と、お願いすると、

(後先のことは考えず、「やっちゃえ、やっちゃえ」という気持ちだったそうで、三木さんなら許してくれるだろうと思っていたそうです)

中島さんは、葬儀が執り行われる青山斎場でお坊さん10人くらいが並んで読経している中、おもむろに「アメイジング・グレイス」を歌いながら、堂々と歩いて祭壇に向かってくれたそうで、永さんも、うなだれながら、中島さんの後を歩くと、

参列者の視線は、何事かと、中島さんに注がれたそうですが、中島さんは、構わず、力いっぱい真剣に歌い続けてくれたそうで、結果、読経とソプラノが響き合い、ものすごい迫力となり、お葬式の後には、多くの参列者から、素晴らしいお葬式だったと喜んでもらえたそうで、

永さんは、

学生時代から僕は、鶏郎さんに本当にお世話になってきたんです。最後の最後に少し恩返しができたと思いました。因習や封建主義を嫌い、若者を信頼した鶏郎さんのような本物の大人と、若いときに出会えた僕は幸せ者です。

と、語っています。

「永六輔が若い頃は水原弘に作詞した「黒い花びら」がミリオンセラーになっていた!」に続く

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