1987年11月18日、プロ野球ドラフト会議で、ヤクルトスワローズと横浜大洋ホエールズから一位指名されると、抽選の結果、ヤクルトスワローズに入団した、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、その後、ヤクルトスワローズの一軍選手たちと共に合同自主トレーニングをしたそうですが、緊張することはなく、プロの世界に入っていく不安も全くなかったそうです。

「長嶋一茂はドラフト1位でヤクルトスワローズに入団していた!」からの続き

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ヤクルトの練習ではいきなり一軍扱いも全く緊張せずヒーローになると確信していた

一茂さんは、ドラフト会議から8日後には、ヤクルトスワローズと正式契約を交わし、その翌日の1987年11月27日には、早くもヤクルトの練習に参加すると、いきなり、一軍扱いで、この時期の合同自主トレーニングでも一軍選手と一緒だったそうですが、

一茂さんは、「いよいよ、憧れのお父さん(長嶋茂雄さん)と同じ舞台に立つ日がやって来た、あとはホームランを打ちまくって、お父さんのようなヒーローになるだけのことだ」と、緊張どころか、得意の絶頂にあったそうです。

一軍選手との合同自主トレーニングも全く緊張しなかった

ちなみに、一般的には、どんなに高校や大学で活躍した選手であろうと、契約金を何千万円も積まれようと、ルーキーは、

  • テレビでしか見たことのない一流選手と同じグランドに立っている
  • 期待のルーキーだと、金魚の糞(ふん)のようにくっついて追い回す何十人ものマスコミに取り込まれ、見つめられ続ける
  • 喉が渇いて水を飲んだだけでフラッシュを浴びせられる
  • すべって転んだだけで、体調が悪いのかと質問攻めに遭う

などの理由から、プロ入り後初めての練習はひどく緊張するそうですが、

一茂さんはというと、そういう種類の緊張を全くと言っていいほど感じなかったのだそうです。

プロの世界に入っても一切不安を感じることはなかった

また、普通、ルーキーにとっては、共にバットを振ったりボールを追いかけているのは、昨日までの大学のチームメイトたちではなく、超人のようなプロ野球選手たちで、

フリーバッティングでピンポン玊のように外野席に運ばれていく打球や、フリスビーのように軽々とホップしたかと思うと、お腹に響くような重い音を立ててミットに収まるピッチャーたちの投げる球を見ると、異次元の世界に感じ、こんな世界で、果たして自分は通用するのだろうかと不安になるそうですが、

一茂さんは、そのような不安も一切、感じることはなかったのだそうです。

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練習を重ねればプロの選手たちにすぐに追いつけると確信していた

というのも、確かに、一茂さんにとっても、プロ野球選手のレベルは恐るべきものがあり、大学の野球部などとは比べ物にならなかったそうですが、

ヤクルトの先輩たちがフリーバッティングでどれほど球を飛ばしても、一茂さんはそれ以上に遠くへ飛ばす自信があったそうで、(尊敬していた広沢克美さんなど少数の例外を除いて)スピードとパワーは誰にも負けてはいないと思い込んでいたそうで、

今は、技術や経験がまだまだ駆け出しで、このプロの選手たちに後れを取っていても、そんなものは、練習すればいくらでも追いつける、追いついたら最後、あとはこのパワーでホームランをガンガン打つだけのことだと考えていたのだそうです。

(当時、一茂さんは、新聞や雑誌に「怠け者」と書きたてられ、やる気がなさそうに見られていたそうですが、実際には、野球の練習が大好きだったそうで、片時も消えることがなかった持病の肘の痛みも無視して練習できるだけの気力がみなぎっていたのだそうです)

「長嶋一茂はプロ初安打(オープン戦)をホームランで飾っていた!」に続く

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