中学の野球部では、長嶋茂雄さんに憧れ、サード(三塁手)志望も、最初はレフト、やがてピッチャーに転向させられたという、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、中学2年生の時、お父さんの仕事の都合で栃木県小山市に引っ越すと、転校先の小山中学野球部では、ノーヒットノーランを達成するなどの活躍で、チームを県大会優勝に導いたといいます。
「江川卓は中学のとき長嶋茂雄に憧れサード(三塁手)志望だった!」からの続き
父親の転勤が決まるも仲間と離れるのが嫌だった
江川さんは、中学2年生の時、お父さんの転勤が決まり、栃木県小山市に転居することになったそうですが、静岡県の佐久間中学校野球部の仲間と離れ離れになるのが辛く、(静岡県岩田郡)佐久間町を離れるのが嫌だったそうで、
キャッチャーの関島民雄くんから、「ウチの二階の部屋が空いているから下宿しないか」と勧められ、江川さんもそうしたかったことから、お父さんに下宿のことを頼み込んだそうですが、お父さんには反対されたそうです。
(鉱山技師のお父さんは、すでに(静岡県の)久根鉱山からすぐ近くの名古屋鉱山に移っていたそうですが、鉱山閉鎖により、栃木県小山市の鉱山の工場に移るように命じられていたのだそうです)
父親にドラマティックなセリフで説得され転校する踏ん切りがついていた
すると、いつもなら、はい分かりましたと聞き分けの良い江川さんも、この時ばかりは粘ったそうで、煮えきらない日が何日か続いた後、
お父さんに、
いいか、卓。この佐久間では、太陽は9時に昇り3時に沈む。でもな、世の中には水平線から陽が昇って水平線に沈むところもあるんだ。いつまでも狭い範囲に閉じこもっていては、人間、大きくならない。関東平野は大きいぞ。俺といっしょに行こう
と、劇画よりもドラマティックな(今風に言えばクサい)セリフで説得されたそうで、江川さんは、ようやく転校する踏ん切りがついたのだそうです。
転校先の小山中学校野球部ではノーヒットノーランを達成しチームを県大会優勝に導いていた
こうして、江川さんは、家族と共に栃木県小山市に移り住むと、小山市立小山中学校でも野球部に入部したそうですが、チームにはエース投手がいたことから、転校生の江川さんは、チームの和を乱したくないとの思いから、ライトを守ったそうです。
しかし、江川さんの凄さは誰の目から見ても明らかで、最終的にはエース投手に起用されると、栗本中学戦では早くもノーヒットノーランを達成するなどの活躍で、県大会でチームを優勝に導いたのでした。
小山高、日大一高、日大三高などの強豪校からスカウトされ、甲子園が急に身近なものに思えていた
すると、そんな江川さんのもとには、小山高、日大一高、日大三高などの強豪校から誘いが来たそうで、江川さんは、急に甲子園が身近なものに思えてきたのだそうです。
というのも、以前通っていた静岡の佐久間中学校野球部は、甲子園どころか、県大会出場すら1度もなく、まずは、県大会に出場することが夢というほどの弱小チームだったそうで、
(静岡県は野球の激戦区で、中学の県大会も、まずは郡大会、そして西部地区大会と、難関を突破しなければ出場することができなかったのだそうです)
江川さんは、著書「たかが江川されど江川」で、小山中学校に転校したことについて、
よしんば(県大会に)出場できたとしても、それだけで満足したはずだ。 あの(佐久間中学校の)野球部のレベルからすれば優勝は到底無理だ。県大会というささやかな夢を果たした後は、静岡県内の高校に進んで、野球よりも受験勉強に精を出していたことだろう。ましてや〝甲子園〟だなんて、夢にも思わなかったに違いない。
父の言葉通り、関東平野は広かった。その広い関東平野に気づかずにいたら、自分自身の野球の力にも、本質的には気づかずにいただろう。小山への転校によって、僕は文字通り、新しい世界に足を踏み入れたのである。
と、綴っています。
「江川卓が作新学院高校に進学したのは早慶戦への憧れからだった!」に続く