「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」などをヒットさせ、舞台芸術において第一線で活躍を続けている、演劇界の重鎮、串田和美(くしだ かずよし)さんは、中学1年生の時、新入生歓迎会で観たお芝居に感銘を受け、演劇部に入部したそうですが、

そのかたわら、お父さんの影響で山登りにも夢中になると、そのせいで、高校時代は成績が悪く、私立の中・高・大一貫校だったにもかからわず、大学に内部進学することができなかったといいます。

今回は、そんな串田和美さんの、生い立ち(幼少期から大学中退まで)をご紹介します。

串田和美

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串田和美のプロフィール

串田和美さんは、1942年8月6日生まれ、
東京都小金井市の出身、

血液型はA型、

学歴は、
成蹊小学校・中学校・高等学校
⇒日本大学芸術学部演劇学科中退

ちなみに、串田和美は本名で、

お父さんは、哲学者で詩人の串田孫一さん、
弟さんは、グラフィックデザイナーの串田光弘さん、
祖父は、三菱銀行初代会長を務めた串田万蔵さん、
母方の祖父は、國學院大學理事長・学長を務めた侯爵の佐佐木行忠さん、
高祖父(佐佐木行忠さんの祖父)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の政治家の佐々木高行さん、

と、由緒ある一族です。

串田和美は2歳の時に疎開先で観た歌舞伎に鮮烈な印象を受けていた

串田和美さんは、哲学者で詩人の串田孫一さんのもと誕生すると、戦時中の2歳の時には、山形県新庄市十日町にある荒小屋(あらごや)というところに疎開したそうです。

そんな中、終戦から2、3ヶ月後、近所の農家のおばさんに、その土地の歌舞伎に連れて行ってもらったそうで、掛小屋(臨時にこしらえた小屋)に裸電球がボンボンとぶらさがり、そのまぶしい明かりの下で、素朴な衣装の俳優たちがゾロゾロと出てくる姿は、「だんまり」のようで、幼い串田和美さんは鮮烈な印象を受けたそうです。

(「だんまり」とは、歌舞伎の演出の一つで、何人かの登場人物が、暗闇の中で黙ったままお互いのことを探り合うこと)

ちなみに、串田和美さんは、幼い時に観たその風景が映像としてずっと脳裏に刷り込まれているそうで、

芝居っていうと、立派な劇場でただ黙って観るだけじゃなくて、ゴザの上で食べたり飲んだりして、ウワァーッとか言いながら観る雰囲気が何度も僕の頭の中をよぎるんだよね。

だから六本木の地下の小さな空間でも、芝居をやるにはここで十分と思ったし、のちにコクーン歌舞伎を作る時も、そんなふうなゴザの上に座ってワイワイ見物する、原点に戻ろうという発想から始めた。僕は芝居って、お客さんとの対話だと思っているからね。

と、語っています。

串田和美は中学進学後の新入生歓迎会でお芝居に魅了されていた

その後、串田和美さんは、中学に進学すると、新入生歓迎会で、「瓜子姫とあまんじゃく」というお芝居をやっているのを観に行ったそうですが、

「つまらねえぞ、やめちゃえ」などと、ヤジ飛ばす人がいて、とにかくそのヤジがひどく、しまいには、その人が舞台に上がり、先生も出てきて、揉めており、

少し不自然な気がして、よく見ると、その先生も子供で、全部お芝居だったことに気づいたそうで、「芝居はこんなことができるんだ」「世界をひっくり返すことができるんだ」と、とても感心したのだそうです。

串田和美は中学進学後に演劇部に入部していた

そこで、串田和美さんは、演劇部に入ろうと、一緒に観ていた友達と演劇部の部室に行ったそうですが、誰もいなかったそうで、

ふと見ると、机にドーランが置いてあり、これで顔を塗るんだなと、蓋(ふた)を開けたりしていると、国語の先生がやって来て、

そのニオイ嗅いだらやめられないよ

と、言い、ニヤッと笑ったそうで、

串田和美さんは、

えー、嗅いじゃった、どうしよう

と、言いながら、この時から演劇を始めることになったのだそうです。

(串田和美さんが新人歓迎会で観ていたお芝居は、瓜子姫が長山藍子さんで、ヤジを飛ばしたのが山本圭さんだったそうです)

串田和美は中学時代は演劇部に所属する一方、父親の影響で山登りに夢中になっていた

そんな串田和美さんは、「文学座」「俳優座」「劇団民藝」の芝居を1人で観て歩くようになったそうですが、

そんな中、中学2年生になる前の春休みに、初めて、お父さんと谷川岳に登り、無人の山小屋で煤(すす)まみれになりながらスープを作って食べると、こんなに楽しい、夢みたいな世界があるんだと興奮し、すっかり山に魅了されたのだそうです。

串田和美は中学生時代は1人で山登りをし、遭難しかけたこともあった

そこで、次は1人で行ってみようと思い、お父さんにそのことを伝えると、お父さんは地図の読み方から教えてくれたそうで、

串田和美さんは、誰が見ているわけでもないのに、おにぎりを食べるのにどの岩に腰掛けようかと考えたり、実際に山に1人で行った際には、別の岩に腰掛けてハーモニカを吹いたりして楽しんだのだそうです。

また、一度、遭難しかけて途方に暮れたことがあったそうですが、串田和美さんは、転機というものは、この途方に暮れている時に訪れるのでは、と考えているそうで、

日が暮れてきて、さてどうしよう、って時に、あーっ、と落ち込んだら絶対ダメ。何かこう、明るくワクワクするような気も交えて、雨が降った時の対策とかを考えていると、頭が冴えてくるんだよね。

のちに自由劇場を立ち上げて、その7年後くらいにみんないなくなって借金だらけになり、いろんなことが壊れちゃった時に、あの山で遭難しかけた時の肝の決め方みたいなものが甦ってきて、きっとなんとかなるぞと思ってた。

それでオンシアター自由劇場として本格的な演劇活動を再開することになる(1975年)

と、語っています。

(串田和美さんは、山登りをするために体力をつけようと、サッカー部にも入っていたそうです)

串田和美は高校時代は成績が悪くエスカレーター式で大学に進学できなかった

こうして、串田和美さんは、山と演劇の日々を過ごしていたそうですが、そのせいで、高校時代は成績が悪く、私立の中高大一貫校だったにもかかわらず、エスカレーター式で大学に進学することができなかったそうで、

(大学進学どころか、何度も留年しそうになったそうです)

高校3年生の秋の終わり頃に、担任の先生から「大学には行けないよ」と言われ、外部の大学を受験するため、そこから必死で受験勉強したのだそうです。

(ちょうど、冬にやろうと思っていたお芝居がインフルエンザの流行で中止なったこともあり、勉強に励むことができたそうです)

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串田和美は高校卒業後は日本大学芸術学部に進学するも1年で退学していた

ただ、2月に受験した早稲田大学は不合格で、1ヶ月後の3月に日本大学芸術学部(日藝)を受験すると、無事合格したそうですが・・・

(当時の日藝には)学ぶべきことが何もなかったそうで、入学後、わずか1年で退学したのだそうです。

「串田和美の若い頃は?現在までの経歴を時系列でまとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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