1968年4月、フジテレビにアナウンサーとして入社すると、その後、真面目そうな風貌にもかかわらず、話術の巧みさ、人柄の朗らかさが滲(にじ)み出るトークで人気を博し、フリー転身後も、「クイズ世界はSHOWbyショーバイ」「たけし・逸見の平成教育委員会」などで活躍した、逸見政孝(いつみ まさたか)さん。

そんな逸見政孝さんは、小学・中学時代は野球少年で、高校進学後は野球部に入部するも、家計が苦しく、道具一式を購入することができなかったため、マネージャーを志願し、たちまち辣腕(らつわん)をふるったそうですが、一方、マネージャーの仕事がない時期には、放送部などの部活を掛け持ちしていたそうです。

今回は、そんな逸見政孝さんの、生い立ち(誕生から大学時代まで)をご紹介します。

逸見政孝

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逸見政孝のプロフィール

逸見政孝さんは、1945年2月16日生まれ、
大阪府大阪市阿倍野区の出身、

身長171センチ、

血液型はB型、

学歴は、
大阪市立阪南小学校
⇒大阪市立阪南中学校
⇒大阪府立阿倍野高等学校
⇒早稲田大学第一文学部卒業

趣味は、映画鑑賞、

(逸見政孝さんは子供の頃から映画を観ることが好きで、特に、チャップリンと黒澤明監督の作品が好きだったことから、「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていたそうです)

ちなみに、逸見政孝は本名で、

1993年12月25日、48歳で亡くなっています。

逸見政孝は菓子問屋を営む父と母のもとに誕生していた

逸見政孝さんは、菓子問屋を営むお父さんとお母さんのもと、大阪の下町・阿倍野区阪南町にある木造2階建ての五軒長屋に、2人兄弟の長男として誕生するのですが、

戦時中、菓子問屋が空襲で消失して虚脱状態になっていたお父さんと、家計を助けるために缶詰工場で手を火傷まみれにしながら働くお母さんの背中を見て、

長男である自分がしっかりしなければ

と、思いながら育ったそうです。

(お父さんはその後、福徳相互銀行に就職し、長く勤めたそうです)

逸見政孝は小学・中学生時代は野球少年だった

そんな逸見政孝さんは、幼い頃から、「トラキチ」だったお父さんの影響で大の阪神タイガースのファンだったそうで、小学・中学時代は野球少年だったそうですが、

クラブ活動やリトルリーグには入らず、早朝に登校し、グラウンドで友達と野球をして遊んだそうです。

(逸見政孝さんは、このことを「球場を確保」と言っていたそうです)

逸見政孝は高校時代は野球部で、マネージャーとして辣腕を振るっていた

逸見政孝さんは、中学を卒業後は、実家近くにある阿倍野高校に進学すると、(野球を遊びだと思う友達がいなかったため)「本格的な野球をしよう」と、硬式野球部に入部したそうですが、

バットやグラブなど道具一式はすべて自分で買い揃えなくてはならず、家計が苦しい中、お母さんに頼むことができなかったそうです。

そこで、逸見政孝さんはマネージャーを志願すると、監督にOKをもらったそうで、その後は、マネージャーとして辣腕(らつわん)を振るったのだそうです。

(逸見政孝さんはマネージャーとして監督や選手からの信頼も厚かったそうです)

また、逸見政孝さんは、マネージャーの仕事が暇になると、放送部ほか様々な部活動を掛け持ちしたそうです。

逸見政孝は高校卒業後は1浪の末、早稲田大学に進学していた

そんな逸見政孝さんは、高校3年生の時、先輩から「大学野球部でもマネージャーになれる」と誘われて、関西学院大学を受験するのですが、残念ながら不合格。さらには、同じ時期に、当時、付き合っていた女性にふられてしまったそうで、

「見返してやりたい」という気持ちと、文化祭の司会や放送部の経験から「自分にもできそうで高収入の仕事」という理由で在京テレビ局のアナウンサーを志すと、1年浪人の末、早稲田大学、関西学院大学、同志社大学を受験して全て合格。

アナウンサーになるのに最も有利な大学ということで、早稲田大学を選択すると、逸見政孝さんは、高校卒業後の1964年4月、19歳の時に上京し、早稲田大学に進学したのだそうです。

(この時、東海道新幹線はまだ開業しておらず、国鉄特急の3等車で長時間揺られながら東京に向かったそうです)

逸見政孝は大学時代はアナウンス研究会に所属し、大阪弁を標準語のアクセントに直すために徹底訓練していた

こうして、逸見政孝さんは、早稲田大学に進学し、アナウンス研究会に入部すると、大阪弁を標準語のアクセントに直すため、徹底した訓練を実施したそうで、

まず、ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。

次に、アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマークしたそうです。

また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにするなど、標準語のアクセントを徹底的に覚えたのだそうです。

ちなみに、逸見政孝さんと同期で親友の松倉悦郎さんは、

逸見との出会いは、’64年の4月、早稲田大学の大隈講堂前でした。入学式があったこの日、第一文学部演劇学科のクラスメイトで集合写真を撮った。

そのとき、斜め後ろにいたのが逸見でした。『アナウンサーになるために大阪から上京してきた』と熱っぽく語っていたのを覚えています

と、語っています。

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逸見政孝は23歳の時にフジテレビにアナウンサーとして入局

すると、そんな努力が実り、逸見政孝さんは、1967年、22歳の時、早稲田大学の同期で友人の松倉悦郎さんとともに、フジテレビのアナウンサー試験を受けて合格し、翌年の1968年4月には、フジテレビにアナウンサーとして入局したのでした。

ちなみに、逸見政孝さんは、フジテレビのアナウンサー試験では、試験官から出身地を確かめられたという程、完璧な標準語を話せるようになっていたといいます。

「【画像】逸見政孝の若い頃からの活躍や経歴を時系列でまとめ!」

お読みいただきありがとうございました

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