1969年、18歳の時、アニメ「アタックNo.1」でアニメソング歌手としてデビューすると、その後、アニメの主題歌、エンディング、挿入歌を歌唱するようになり、「エースをねらえ!」「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「ドラえもんのうた」などが現在も歌い継がれるロングヒットを記録して、ささきいさおさん、水木一郎さん、堀江美都子さんとともに、「アニソン四天王」と称されるようになった、大杉久美子(おおすぎ くみこ)さん。

今回は、そんな大杉久美子さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

大杉久美子

「大杉久美子の生い立ちは?小学生の時はのど自慢荒らし!中学でプロ入り!」からの続き

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大杉久美子の10代の頃

13歳の時に「柴山モモ子」名義で「東京っ子」で歌謡歌手デビューするも全く売れなかった

大杉久美子さんは、1964年、13歳の時、柴山モモ子(しばやま ももこ)名義で、ファーストシングル「東京っ子」で歌謡歌手デビューを果たすのですが、全く売れなかったそうで、

その後も、1965年、「ヤングヤングボレロ」「娘の縁談」と立て続けにシングルを発表するも、泣かず飛ばずだったそうです。

そこで、芸名を「環ルナ」に改名して、1968年、17歳の時には、「ブーガルー・ダウン銀座」「一人ぼっちの夕陽」と、2枚のシングルをリリースしたそうですが、相変わらず、売れなかったそうです。

大杉久美子
デビューシングル「東京っ子」より。

ちなみに、大杉久美子さんは、

まだ中学生じゃないですか。中途半端な年齢なんですよね。愛だの恋だのには早いし、童謡を歌う年でもない。中途半端な曲しか作れないんです。

デビュー曲は私が東京出身だったから「東京っ子」っていう歌を作っていただいたんですが、まったく売れなかった。今考えると自分の心構えもできてなかったし、プロダクションにも所属してなかったから、ヒットなんてムリだったんですね。

と、語っています。

17~18歳頃にアニメ「アタックNo.1」の主題歌のオーディションに合格していた

そこで、大杉久美子さんは、知り合いの女性が始めた歌謡レッスン教室に誘われて、通い始めると、

ある日のこと、先生に呼ばれて、

オーディションの話があるの。うちに来てる出版社の人があなたに出てほしいって言ってるんだけど、行ってみたら? なんか、漫画の歌らしいんだけど

と、言われ、アニメ「アタックNo.1」の主題歌のオーディションを受けることになったそうで、

その時、すでに曲はできていて、歌が吹き込まれた録音があったことから、大杉久美子さんは、それを聴いて練習し、先生に指導してもらってから、オーディションを受けに行くと、即、合格したそうで、すぐに、レコーディングしようという話になったそうです。

17歳~18歳の時に「アタックNo.1」のレコーディングで作曲者の渡辺岳に厳しく指導されていた

こうして、大杉久美子さんは、「アタックNo.1」のレコーディングに行ったそうですが、いきなり、作曲者の渡辺岳さんに、

そんな声じゃだめだ!

と、叱られ、

ちょっと来なさい

と、録音ブースから非常階段に連れて行かれると、

渡辺岳さん:ここで声出して
大杉久美子さん:アタック~!!
渡辺岳さん:もっと!
大杉久美子さん:アタック~!!

と、厳しく指導されたそうで、

大杉久美子さんは、何度もやり直しさせられたことから、

死ぬ気で

アタック~!!

と、歌ったところ、

そうだ、それだ!

と、やっとOKが出たのだそうです。

(大杉久美子さんは、小さい頃から歌を習っていた先生はとてもやさしく、クラウンレコードでもとても大切にしてもらい、叱られたことがなかったため、この渡辺岳さんの厳しい指導にはとても驚いたそうで、レコーディングに一緒についてきたお母さんが「かわいそうで聞いていられない」と、連れて帰ろうとしたほどだったそうです)

大杉久美子の「アタックNo.1」

18歳で「アタックNo.1」の主題歌でアニメソングデビューし大ヒットを記録

また、このレコーディングには、いろいろな人が録音に立ち会っており、みんなから言いたいことを言われたそうですが、なかなか言われたようにはできず、

結局、録音は1日では終わらず、2日がかりで、ようやく終わったそうで、大杉久美子さんは、1969年、18歳の時に、「アタックNo.1」の主題歌でデビューしたのでした。

(2日目の時、「あんなにスタジオに人がいたんじゃ歌えません」と渡辺岳さんに泣きついて、人を減らしてもらい、ミキサーとディレクターと最小限の人だけにしてもらったのだそうです)

すると、「アタックNo.1」の主題歌は大ヒットを記録したそうで、

大杉久美子さんは、

「たかが漫画の歌」なんて誰も思ってないんですよ。それが、私とアニメソングとの出会いでした。(「アタックNo.1」の)放送のときは、最初は(声優の)小鳩くるみさんの歌が流れて、何週目かから私の歌に変わったんです。

オープニングの映像とともに自分の歌が流れてくるのが新鮮で、「なかなかいいなぁ。一生懸命歌ったかいがあったな」とそのとき思いました。そしたら、すごくヒットしたんですね。

と、語っています。

(また、大杉久美子さんは、この「アタックNo.1」の大ヒットで、念願だったヒット賞を受賞したそうです)

大杉久美子の20代の頃

22歳の時に「ミラクル少女リミットちゃん」「エースをねらえ!」の主題歌歌手に抜擢されていた

こうして、「アタックNo.1」の主題歌が大ヒットした大杉久美子さんは、これをきっかけにアニメソング歌手として本名の「大杉久美子」名義で活動を開始すると、

1973年、22歳の時には、「ミラクル少女リミットちゃん」「エースをねらえ!」など、次々とアニメソングを歌うようになるのですが、

大杉久美子の「エースをねらえ!」

当初はまだ迷いがあり、1971年には、杉美子(すぎ よしこ)名義で歌謡歌手として、「ポケットにりんご」、1972年にも、「ときめき」をリリースしているのですが、全く売れなかったそうで、「アタックNo.1」は売れたものの、自分の歌は売れず、歌手としてやっていけるのかと悩んだそうです。

23歳の時にエンディングを担当したアニメ「アルプスの少女ハイジ」が大ヒットを記録

それでも、大杉久美子さんは、1974年、23歳の時には、アニメ「アルプスの少女ハイジ」のエンディングと挿入歌を歌唱すると、作品とともにレコードも大ヒットを記録。

アナログレコードがCDに交代する1980年代末まで、現役商品としてレコード店の店頭に並び続けるロングヒットとなったのでした。

(主題歌は伊集加代子(現・伊集加代)さんが歌唱)

大杉久美子の「アルプスの少女ハイジ」

実は、この「アルプスの少女ハイジ」は、「アタックNo.1」以来、久しぶりの作曲家・渡辺岳夫さんとの仕事だったそうで、「アタックNo.1」の時に厳しく指導された記憶から、渡辺岳夫さんというと怖いという印象があり、緊張していたそうですが、「アルプスの少女ハイジ」の時は、もう、厳しいことは言われなかったそうです。

それどころか、エンディングの「まっててごらん」と挿入歌「夕方の歌」の2曲を一緒に収録した際には、「夕方の歌」は、難しい歌だったことから、何度も同じところを間違えてしまい、何度も録り直しとなったそうですが、

渡辺岳夫さんは、

彼女はきっとうちでいっぱい練習してきたんだね。だからすぐには直せないんだよ。待っててあげよう

と、言ってくれたそうで、

大杉久美子さんは、申し訳ないと思いつつ、

岳夫先生がそういってくださるなんて

と、とてもうれしかったそうです。

そして、無事、録音が終わった後、「アルプスの少女ハイジ」の試写会に呼ばれ、その時、初めて映像を見たそうですが、

そしたら、オープニングのあのブランコがぐーんとなるシーン! もう、「わあーっ」って引き込まれて、見入ってしまいました。

この『ハイジ』もおかげで大ヒットして、また賞をいただきました。この作品をきっかけに、私は「もう自分の歌だとか漫画の歌だとか関係ない、こんなすばらしい歌が歌えてみんなによろこんでもらえるなら、アニメひと筋で行こう」と心に決めたんです。

と、語っています。

24歳~28歳の時にアニメ「フランダースの犬」ほか「世界名作劇場」の主題歌を歌唱

こうして、アニメソング一筋で行こうと決意した大杉久美子さんは、1975年、24歳の時には、「フランダースの犬」の主題歌を皮切りに、「母をたずねて三千里」(1976年)、「あらいぐまラスカル」(1977年)、「ペリーヌものがたり」(1978年)など、初期の頃の「世界名作劇場」の主題歌を歌唱しているのですが、

実は、これら「世界名作劇場」の主題歌は、「アタックNo.1」「アルプスの少女ハイジ」の音楽を担当した作曲家・渡辺岳夫さんが大杉久美子さんのために書いてくれた曲だったそうです。

大杉久美子の「フランダースの犬」
「フランダースの犬」より。

28歳の時の「ドラえもん」の主題歌とエンディングがロングヒットを記録

そんな大杉久美子さんは、1979年、28歳の時には、「ドラえもん」の主題歌と、エンディング「青い空はポケットさ」を歌唱すると、この主題歌は1992年まで使われるロングヒットとなっています。

大杉久美子の「ドラえもんのうた」

大杉久美子の30代の頃

31歳の時にアニメ「忍者ハットリくん」のエンディングを歌唱しヒットを記録

また、大杉久美子さんは、1982年、31歳の時には、「忍者ハットリくん」のエンディング「ねぇハットリくん」を歌唱すると、こちらも、作品とともにヒットを記録しています。

大杉久美子の「忍者ハットリくん」

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大杉久美子の40代~70代(現在)

その後の大杉久美子さんの詳しい経緯は不明ですが、1979年に出産すると、その後、自身の持ち味だった透き通るような美声が出なくなり、1980年代後半以降は、声質が変わってしまったそうなので、歌手活動をセーブしていたのかもしれません。

それでも、1999年、48歳の時には、ベスト盤CDが限定発売されるほか、江戸川区総合区民ホールにて30周年記念コンサートが開催されると、以降、NHKの番組に出演したり、ミニコンサートを開くなど、歌手活動をしています。

そして、2005年、54歳の時には、コロムビアよりベスト盤CD「大杉久美子スーパー・ベスト」、2010年、59歳の時には、コロムビアよりデビュー40周年記念BOX「燦(きらめき)のとき やさしさの歌」をリリースしています。

大杉久美子の「燦のとき やさしさの歌」
「燦(きらめき)のとき やさしさの歌」

お読みいただきありがとうございました

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