1948年、舞台「鐘の鳴る丘」で子役デビューすると、1966年には、「ウルトラマン」の科学特捜隊アラシ隊員役、1967年には、「ウルトラセブン」の地球防衛軍フルハシ隊員役で、一躍、子供たちに人気を博し、以降、俳優、タレント、ラジオパーソナリティと、幅広い分野で活躍してきた、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さん。
そんな毒蝮三太夫さんは、中学1年生の時に、舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションを受けると合格し、全国を公演のため巡業すると、15歳の時には、「青い真珠」で映画デビューし、以降、東宝、大映の青春映画に次々と出演しました。
今回は、毒蝮三太夫さんの、生い立ち(幼少期から子役時代まで)をご紹介します。
毒蝮三太夫のプロフィール
毒蝮三太夫さんは、1936年3月31日生まれ、
東京都台東区の出身(大阪市住吉区生まれ)、
身長170センチ、
体重78キロ、
血液型はO型、
学歴は、
台東区立下谷中学校
⇒東京都立大森高等学校
⇒日本大学芸術学部映画学科卒業
趣味は、
プロ野球観戦、草野球 だそうです。
1966年「ウルトラマン」(科学特捜隊アラシ隊員役)、1967年「ウルトラセブン」(地球防衛軍フルハシ隊員役)で、一躍、子供たちに人気を博すと、以降、俳優、タレント、ラジオパーソナリティと幅広い分野で活躍してきた、毒蝮三 …
毒蝮三太夫が幼い頃は家に鍵をかける習慣がなかった
毒蝮三太夫さんは、大工のお父さん・正寅さんとお母さん・ひささんの間に3人兄弟(兄2人)の末っ子として、大阪住吉区で誕生すると、生後3ヶ月の時、東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)の木造長屋に転居したそうですが、
そこは、鍵をかける習慣がなく、近所のおばちゃんが自由に出入りするような、今では信じられない環境で育ったそうです。
毒蝮三太夫が幼い頃は一人っ子のように育っていた
また、毒蝮三太夫さんは、お兄さん2人とは異父兄弟で(お母さんは、前の夫と死別して正寅さんとは再婚だったそうで、お兄さん2人はお母さんの連れ子だったそうです)、10歳以上年が離れていたことから、
一人っ子のように育ち、寂しかったそうですが、両親からもお兄さんたちからもとてもかわいがられて育ったそうです。
毒蝮三太夫の両親は個性的だった
ちなみに、毒蝮三太夫さんのお母さんは、当時、男性に従う控えめな女性が一般的だった中、とても気が強く、お父さんに食ってかかり、そのうえ、料理は苦手、朝寝坊はするという、お世辞にも良妻賢母とは言えない女性だったそうです。
(ただ、人一倍、情には厚かったそうです)
1948年、舞台「鐘の鳴る丘」で子役デビューして、児童劇団に入って以来、70年以上に渡り、数多くのテレビドラマや映画に出演するほか、タレントとしても活躍している、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さん。今回は、そんな毒 …
毒蝮三太夫さんと母・ひささん。
また、毒蝮三太夫さんのお父さんも、お母さんに負けず劣らず、とても個性的な人だったそうですが、毒蝮三太夫さんは、お父さんから何かを強制されたり、反対されたことは一度もなく、好きなことは何でもさせてもらったそうで、そのことにとても感謝しているそうです。
当時は、男性に従う控えめな女性が一般的だった中、とても気が強く、お父さんに食って掛かり、そのうえ、料理は苦手、朝寝坊はするという、お世辞にも良妻賢母とは言えない女性ながら、人一倍情に厚かったというお母さんを持つ、毒蝮三太 …
毒蝮三太夫さんと父・正寅さん。
毒蝮三太夫は9歳の時に東京大空襲を体験していた
そんな毒蝮三太夫さんは、のびのびと育ったそうですが、1945年2月、9歳の時には、東京の街は戦争一色となり、同年3月10日、東京大空襲を体験したといいます。
個性的で自由気ままな両親のもと、自由に伸び伸びと育ったという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、やがて、戦争一色となり、「東京大空襲」を経験したといいます。 「毒蝮三太夫の父親も母親に負けず劣らず個性的だっ …
東京大空襲(下町)は免れるも、城南大空襲(広義での東京大空襲)に遭い、焼夷弾が投下される中、消火活動をしていたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんですが、消火は一向に進まず、やがては、燃え盛る火の海の中、お母 …
城南大空襲(広義での東京大空襲)に遭い、死体だらけの焼け野原の中、命からがら生き延びたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんは、その後、玉音放送により終戦を知ると、嬉しくて嬉しくてたまらなかったといいます。 「 …
毒蝮三太夫は中学1年生の時に友達の付き添いで行った舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションに合格
終戦後、毒蝮三太夫さんは、1948年、中学1年生の時には、友達が舞台「鐘の鳴る丘」のオーディションを受けに行くということで、頼まれて付き添いで同行したそうですが、
オーディション会場では、毒蝮三太夫さんも台本を読まされたそうで、しかも、合格したのだそうです。
(肝心の友だちは落ちてしまったそうです)
毒蝮三太夫は子役で「鐘の鳴る丘」の公演のため全国を巡業していた
そんな毒蝮三太夫さんは、「鐘の鳴る丘」の公演のため、夜行列車に乗って、2ヶ月半ほど、全国あちこちを回ったそうですが、
劇中、孤児がおひつの中のご飯を食べるシーンでは、本物のお米が入っていて、その場で食べていいことになっていたことから、毒蝮三太夫さんは、この役が回ってくるのを楽しみにしていたそうです。
(孤児役は、子どもたちが順番にやることになっていたそうです)
城南大空襲(広義での東京大空襲)で、悲惨な経験をしていたことから、玉音放送を聞いて終戦と知り、内心、飛び上がるほど大喜びしたという、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さんは、その後、ひょんなことから、演劇の楽しさに目覚 …
毒蝮三太夫は15歳の時に「青い真珠」で映画デビュー
そして、舞台「鐘の鳴る丘」の全国巡業から帰ってくると、毒蝮三太夫さんは、学校の人気者になっていたそうで、スターのような気分を味わえたそうです。
また、稼いだギャラ3000円を家に入れると、両親がとても喜んでくれたそうで、これをきっかけに、俳優を志し、児童劇団に入団したのだそうです。
そんな毒蝮三太夫さんは、1951年、15歳の時には、「青い真珠」で映画デビューすると、以降、東宝、大映の青春映画に次々と出演することになります。
「【画像】毒蝮三太夫の若い頃はウルトラマンの隊員!デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1948年、「鐘の鳴る丘」で舞台デビューすると、以降、俳優、タレント、パーソナリティとして、70年以上も芸能界で活躍を続けている、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さん。 今回は、そんな毒蝮三太夫さんの若い頃から現在ま …