15歳の時に高校を中退するも、その後、病に苦しみながらも「不死鳥コンサート」を成功させた母・美空ひばりさんを見て、外部のプロモーターではなく、自身が支えていこうと決意したという、加藤和也(かとう かずや)さんは、16歳で「ひばりプロダクション」の副社長に就任し、17歳で社長に昇格したといいます。
今回は、そんな加藤和也さんの若い頃から現在までの経歴を時系列でまとめてみました。
加藤和也は15歳の時に美空ひばりが大腿骨骨頭壊死と肝硬変だと告げられていた
1987年、高校に入学してたった2ヶ月で無期停学になった加藤和也さんは、ちょうどその頃、全国ツアーに出ていた美空ひばりさんが、最終日の福岡で、脚の痛みと気分の悪さを訴えて緊急入院したことを知ったそうで、どうせ、停学だから福岡へ行こうかなと思い福岡へ行ったそうですが、
(その時はそれほど重い病気だとは思っておらず軽い気持ちだったそうです)
医師には、美空ひばりさんが大腿骨骨頭壊死と肝硬変だと告げられたそうです。
(身内は加藤和也さんだけだったことから、医師の説明も一人で聞いたそうです)
加藤和也は16歳の時(高校1年生の夏休み明け)に高校を中退していた
その後、加藤和也さんは、無期停学が解け、試験を受けるため一足先に帰京したそうですが、試験はまったくできず、高校を辞めてもいいかなと考えるようになり、結局、夏休み明けに高校を中退したそうで、
加藤和也さんは、美空ひばりさんに、高校中退を報告した時のことを、
(学校を出て駅の公衆電話から美空ひばりさんに電話をすると)おふくろは勘のいい人だから、“どうした? 何かあった?”って。学校をやめてきたと言ったら、10秒くらい沈黙がありましたね。
次に“で、どうするの?”と。友人とバンドを組んでパンクロックをやっていたので、音楽の勉強をしたいと答えました。“あんたね、学校へ行くより大変よ。最終学歴が中卒じゃ苦労するわよ”と言われました。
それでも、最後には“次のことを考えられるなら、いいんじゃない?”と。見ていないようで、おふくろは僕のことを見てくれていたんだなと思いましたね
と、語っています。
加藤和也は16歳の時に病気の美空ひばりを支えようと決意していた
その後、美空ひばりさんの治療は順調に進み、夏には退院できたそうですが、やがて、美空ひばりさんの体調はどんどん悪化したそうで、
1988年4月、東京ドームでの「不死鳥コンサート」では、脚を引きずりながら歩く美空ひばりさんに、16歳だった加藤和也さんがずっと付き添っていたといいます。
体調の悪い美空ひばりさんをサポートする加藤和也さん。
そして、東京ドームで見事な復活を果たした美空ひばりさんは、全国からコンサートのオファーが殺到したそうですが、
加藤和也さんは、放っておいたら美空ひばりさんはオファーを全部引き受けかねないと、自分が歯止めになるしかないと決意したそうで、金髪にしていた髪を黒髪に戻してスーツを買い、
(それが運命なのかもしれないと思ったそうです)
美空ひばりさんに、
手伝わせてください
と、頼むと、
美空ひばりさんは、泣いて喜び、周囲に、
私、この子に任せたから
と、宣言してくれたのだそうです。
ちなみに、「不死鳥コンサート」でずっと美空ひばりさんに付き添っていた加藤和也さんは、美空ひばりさんがどれほど大変な状態かが分かり、この時、自分が美空ひばりさんの家に来た意味も考えたそうですが、
ドームでのコンサートが終わったとき、5万5千人の鳴りやまない拍手が、美空ひばりさんを今後も全力で歌に向かわせることにつながるだろうと感じたそうで、
その瞬間、病気になった美空ひばりさんを支えていこうと、自分の気持ちがはっきりと決まったのだそうです
加藤和也は16歳の時に「ひばりプロダクション」の副社長に就任し17歳の時には社長に昇格していた
こうして、加藤和也さんは、16歳で、同年(1988年)5月から始まった美空ひばりさんのツアーに帯同し、裏方として必死に働くと、同時に「ひばりプロダクション」の副社長に就任し、翌年、17歳の時には社長に昇格したそうで、
(美空ひばりさんは、息子が一緒に仕事をしてくれることがよほど嬉しかったのか、「将来、好きなことをしなさい」と関連会社まで作ってくれたそうです)
その後、美空ひばりさんの病状を考えながらツアーの日程を決めるため、専属プロモーターに依頼することをやめ、「ひばりプロダクション」で自主興行という形でツアーを敢行することにしたそうですが、
(美空ひばりさんは、加藤和也さんの意見を素直に聞いてくれたそうですが)プロモーターにしてみれば、美空ひばりさんのコンサートができるかどうかは死活問題のため(また、長年築いてきた関係もあり)、大騒動に発展したそうです。
それでも、最終的には、プロモーターに真摯(しんし)に対応し、なんとか、丸く収めることができたのだそうです。
(美空ひばりさんは、これまで、どれほど高熱があってもステージに上って歌い、調子が悪くても訴えることがなかったそうで、加藤和也さんは、美空ひばりさんに無理をさせないスケジュールを組みながら、誰にも病気のことは知られないようにしていたそうです)
加藤和也は17歳の時に美空ひばりの横浜アリーナのこけら落としコンサートの中止を決断していた
そして、1989年、17歳の時には、美空ひばりさんの具合が悪かったことから、4月17日に予定されていた自主興行ツアーのこけら落としである、(美空ひばりさんの故郷の横浜に施工した)横浜アリーナのコンサートの中止を決断したそうですが、
その過程では、説得を試みる加藤和也さんと、この舞台に立つことに執念を見せていた美空ひばりさんは、大ゲンカとなったといいます。
それでも、最終的には、泣く泣く美空ひばりさんが、ファンのためではなく、息子のために生きる選択をし、この説得を受け入れたのだそうです。
加藤和也は18歳直前に美空ひばりが他界し、以降、美空ひばり関連の企画・運営・管理を手掛けている
そんな中、1989年6月24日、加藤和也さんが18歳になる直前には、美空ひばりさんが他界されているのですが、
以降、加藤和也さんは、「ひばりプロダクション」の社長として、熱心なファンのために、様々な企画、運営を行うほか、美空ひばりさんの権利の管理、「美空ひばり記念館」や「ひばりかふぇ」などの飲食店も手掛けています。
加藤和也が30歳の時には「マネーの虎」に出資する側として出演していた
また、加藤和也さんは、2001年には、一般人が出資者から投資をしてもらうべく自分の夢や目標をプレゼンする、テレビ番組「マネーの虎」に、投資する側の「虎」の一人としてレギュラー出演すと、世界一のパスタ料理店を開きたいと語った立花洋さんに980万円を投資しています。
(ほかの「虎」たちが採算が取れないと危惧する中、加藤和也さんは「おいしいパスタを食べてもらいたい」という立花洋さんの”まっすぐな人柄”に心を打たれて投資したそうです)
すると、見事、パスタ料理店は大成功となり、一時は、4店舗、年商2億円にまでなっているのですが、2017年に身内による横領に遭い、2019年には全店閉店となっています。
加藤和也の現在(50代)
そんな加藤和也さんは、その後、テレビ番組に出演したり、取材に応じ、美空ひばりさんの思い出を語り継ぐなど、美空ひばりさんの伝説を風化させないための活動もしています。
トーク番組「徹子の部屋」に出演する加藤和也さんと石井ふく子さん。
「加藤和也の妻との馴れ初めは?子供がいない理由とは?」に続く
歌謡界の女王・美空ひばりさんが他界後は、美空ひばりさん関連のイベント、運営、企画のほか、美空ひばりさんが過去の人にならないため、美空ひばりさんの伝説を継承する活動などを展開している、加藤和也(かとう かずや)さんですが、 …