映画女優として活動していた1941年、19歳の時、慶應義塾大学の学生だった加藤道夫さんと芥川比呂志さんに誘われて「新演劇研究会」に参加すると、以降、舞台を中心に、主演級女優として活躍した、加藤治子(かとう はるこ)さん。
そんな加藤治子さんは、幼少期に、父、母、姉、兄と、次々に死別したそうで、10代の時には、松竹少女歌劇学校に入学したといいます。
今回は、加藤治子さんの、幼少期(生い立ち)、若い頃(劇団時代)の経歴をご紹介します。
加藤治子のプロフィール
加藤治子さんは、1922年11月24日生まれ、
東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)の出身、
血液型はAB型、
ちなみに、本名は「瀧浪治子」で、結婚後は「加藤治子」、旧芸名は「御舟京子」(みふね きょうこ)です。
加藤治子は幼い頃に父母兄姉と次々に死別していた
加藤治子さんは、非嫡出子(法律上、結婚していない男女の間に生まれた子供のこと)として誕生したそうですが、
- お父さんは、加藤治子さんが4歳の時に他界
- 加藤治子さんのすぐ上のお兄さんは、赤ちゃんの時に他界(昔は乳幼児死亡率が高かったため)
- 長兄は、戦後、日本への引き揚げ船を待ちながら上海で他界
- 長姉は、18歳の時に入水自殺
- 母親は、睡眠薬の飲み過ぎによる事故死ともとれる自殺
と、次々に、父、母、兄、姉と死別したそうです。
加藤治子は17歳の時に東宝映画「花つみ日記」の端役で映画デビュー
そんな加藤治子さんは、松竹少女歌劇学校を経て(10代)、1937年、15歳の時、「御舟京子」(みふね きょうこ)名義で松竹少女歌劇団に入団すると、
1939年、17歳の時には、東宝映画へ移り、「花つみ日記」の端役で映画デビューしたそうです。
加藤治子は19歳の時に加藤道夫、芥川比呂志らが結成した新演劇研究会に参加
その後も、加藤治子さんは、1940年、「そよ風父と共に」「孫悟空」「女学生記」などの映画に出演すると、
1941年、19歳の時には、慶應義塾大学の学生だった、加藤道夫さん、芥川比呂志さんらが結成した「新演劇研究会」に誘われ、参加したそうですが、
ほどなくして、太平洋戦争が始まり、「新演劇研究会」は解散してしまったそうで、
加藤治子さんは、1942年のことについて、インタビュー形式による書籍「ひとりのおんな」で、
昭和17年(1942年)に二人(加藤道夫さん、芥川比呂志さん)とも繰り上げ卒業になり、まず芥川さんが学徒出陣で応召して行きました。
池の端の「雨月荘」というところで送別会をして、その帰り、みんなで上野の森を歩き、美術館の広い石段では、シーザー暗殺の場面を、英語で朗々と演じたんです。
なんだか、それこそ芝居じみていると思われるでしょうが、そのときはとても自然で、私はこの人達のお芝居がいつまでも続けばいいと心から思いました。
みんな胸の中に言いたいことがいっぱいあるのに、何にも言わないで、シェイクスピアの台詞を懸命に朗誦している___[略]いまでもその夜の光景は、はっきり思い出せます。
と、語っています。
加藤治子は27歳の時に文学座で主演級の女優として活躍していた
そして、1945年、ようやく戦争が終わると、加藤道夫さん、芥川比呂志さん共に無事帰還して再会を果たし、
一旦は解散した「新演劇研究会」を「麦の会」と改称して再出発したそうで、
加藤治子さんは、インタビュー形式による書籍「ひとりのおんな」で、
長い戦争があって、それが終わり、三人(加藤治子さん、加藤道夫さん、芥川比呂志さんの新演劇研究会のメンバー)がまた出会えたときが、私の人生の中で一番幸せだったような気がします。
(戦地から婚約者の)道夫が帰ってきた夏、芥川さんが当時住んでらした鵠沼で芝居をすることになり、昼間はチェーホフの『熊』を学校の講堂でやり、夜は海岸を散歩しました。
砂の上に身体を横たえると大きな夜空に光っている星の中に吸い込まれていくようでした。私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。
そう思うと嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながら、どこまでも走りました。もうするしかなかったんです。
と、語っています。
また、加藤治子さんは、翌年の1946年、24歳の時には、戦地に赴く前に婚約していたという加藤道夫さんと結婚すると、
1949年、27歳の時には、「麦の会」が「文学座」に合流しているのですが、加藤治子さんは、以降、「文学座」で主演級の女優として活躍したのでした。
(ただ、加藤道夫さんは1953年に自殺しています)
加藤治子は41歳の時に文学座を脱退し劇団雲の設立に参加していた
その後、加藤治子さんは、1963年1月14日、芥川比呂志さん、山崎努さん、岸田今日子さん、仲谷昇さんら29名と共に「文学座」を退団すると、「劇団雲」の設立に参加し、舞台を中心に活躍していたのですが、
1975年に「劇団雲」が内部分裂を起こすと、同年、「劇団雲」も脱退しています。
加藤治子の出演作品(舞台)
それでは、ここで、加藤治子さんの主な出演舞台をご紹介しましょう。
- 1958年「マクベス」
- 1960年「熱帯樹」
- 1963年「夏の夜の夢」
- 1964年「御意にまかす」
- 1965年「夜への長い旅路」
- 1966年「黄金の国」
- 1967年「ヘンリー四世」
- 1968年「氷屋来る」
- 1969年「トロイアの女たち」
- 1972年「家庭の幸福?」
- 1974年「スカパンの悪だくみ」
- 1975年「新ハムレット」
- 1980年「熱帯樹」
- 1982年「二階の女」
- 1984年「アグネス」
- 1986年「コリオレイナス」
- 1987年「朱雀家の滅亡」
- 1992年「夜叉ヶ池」
- 1996年「エレクトラ」
- 1998年「三婆」
- 2001年「こんにちは、母さん」
- 2003年「ゴロヴリョフ家の人々」
などに出演しています。
「【画像】加藤治子の若い頃から死去までの出演ドラマ映画は?」に続く
1939年、17歳の時、東宝映画「花つみ日記」で女優デビューし、その後、舞台を中心に活躍すると、1964年、テレビドラマ「七人の孫」に出演後は、ホームドラマに欠かせない母親像として存在感を発揮して、「寺内貫太郎一家」シリ …