17歳の時に女優デビューすると、その後、映画、舞台で活躍し、42歳の時、テレビドラマ「七人の孫」で母親役を演じると、以降、ホームドラマに欠かせない存在となった、加藤治子(かとう はるこ)さん。
そんな加藤治子さんは、プライベートでは、結婚を2回、死別と離婚を1回ずつしています。
今回は、加藤治子さんの、最初の夫で劇作家の加藤道夫さんとの馴れ初め、死別に至る経緯、再婚相手(2番目の夫)の高橋昌也さん、子供についてご紹介します。
「【画像】加藤治子の若い頃から死去までの出演ドラマ映画は?」からの続き
加藤治子と最初の夫・加藤道夫との馴れ初めは?
加藤治子さんは、1946年10月、劇作家の加藤道夫さんと結婚しています。
加藤治子さんの最初の夫・加藤道夫さん。
加藤治子さんは、東宝の映画女優として活動していた1941年、19歳の時に、慶應義塾大学の学生だった、加藤道夫さんと芥川比呂志さんらが結成した「新演劇研究会」に誘われて、「新演劇研究会」に参加したことがきっかけで、加藤道夫さんと知り合うと、お芝居を通じて親しくなっていったようで、
加藤道夫さんは、その後、1944年に、陸軍省通訳官として南方(ニューギニア)へ赴任しているのですが、その前に婚約していたようで、1946年夏に、加藤道夫さんが何とか無事に帰国すると、この年の10月に結婚したのだそうです。
ちなみに、仲人は、加藤道夫さんと共に「新演劇研究会」を設立した、芥川比呂志さん・瑠璃子さん夫妻が務めたそうです。
加藤治子は結婚後しばらくして元夫・加藤道夫の実家で暮らしていた
そんな加藤治子さんと加藤道夫さんは、新婚時代は、世田谷区上馬で暮らしていたそうですが、
その後、近くの若林町にある加藤道夫さんの実家(広い西洋館)に移り、加藤道夫さんの親族と同居したそうです。
加藤治子の元夫・加藤道夫はマラリアが再発し病床に伏すことが多くなっていた
ただ、加藤道夫さんは、戦時中、南方(ニューギニア)に赴任していた際、マラリアに感染していたそうで、
なんとか生還するも、1947年には、マラリアが再発し、病床に伏すことが多くなっていたそうで、経済的に困窮し、新聞・雑誌等に雑文を書いて生計を立てていたそうです。
加藤治子の元夫・加藤道夫は突然自ら命を絶っていた
それでも、加藤道夫さんは、病に冒されながらも精力的に作品を発表していたそうですが、1953年12月22日の夜、突然、自宅の書斎(玄関先という話も)で、首を吊って自殺していたそうで、
その夜更けに帰宅した、加藤治子さんが第一発見者となったのだそうです。
ちなみに、加藤道夫さんは、同年12月16日頃まで、静岡県田方郡上狩野村(現・伊豆市)の嵯峨沢温泉で、フランスの作家・アルフレッド・ド・ミュッセの「マリアンヌの気紛れ」という作品の翻訳に携わっていたそうで、
9日には、宿から、妻の加藤治子さんに、
こんな贅沢な宿屋にいると毎日苦労している治坊のことを考えて心苦しい。でも、若林の家(加藤道夫さんの実家)ではどうしても落着いて仕事も手につかないので、勘弁して下さい。岩波のミュッセだけはどうしても今月中に渡してしまわねばならないので。
来年は必ず小さな家をみつけて引越すから、もうすこし我慢して下さい。来年は必ずいいことがあるように努力します。身体の調子はいいです。十六日の夜には帰ります。風邪をひかないように頑張って下さい。
という手紙を書き送っていたそうですが、
帰京した12月22日の夜に帰らぬ人となったのでした。
加藤治子の元夫・加藤道夫の自殺理由は?
ちなみに、加藤道夫さんの自殺の理由ですが、加藤道夫さんは、所属していた文学座に宛てた遺書に、
芸術上の行き詰り
と、書いていたと言われています。
(1952年10月1日、加藤道夫さんの作品「襤褸と宝石」が俳優座により初演されたそうですが(演出・千田是也さん)、評価があまり良くなく、仲間内でも悪口を言われていたそうで、加藤道夫さんは、ずっと気にしていたといいます)
ただ、加藤治子さんと芥川比呂志さんに宛てた遺書では、
僕は幼にして罪を犯され、その記憶が、いまに忌しく、地獄の苦しみ・・・
と、幼少期に性的虐待を受けたことがうかがわれる言葉が書いてあったとのことで、
これも自殺の要因と考えられています。
加藤治子の再婚相手(2番目の夫)は高橋昌也
加藤治子さんは、加藤道夫さんと死別後、1958年に演出家で俳優の高橋昌也さんと再婚していたそうですが、1973年には離婚したといいます。
加藤治子さんの再婚相手(2番目の夫)高橋昌也さん。
加藤治子さんは、高橋昌也さんとのことについて、ほとんど語っていないようで、結婚や離婚に至った経緯など、詳しいことは不明です。
(高橋昌也さんは2014年1月、83歳で他界されています)
加藤治子の子供は?
加藤治子さんは、最初の夫・加藤道夫さんとの間にも、2番目の夫・高橋昌也さんとの間にも、子供はいません。
ちなみに、加藤治子さんは、乳ガンで余命5ヶ月を宣告された際、相続の準備を始めたそうですが、
子供がいなかったことから、世田谷の一等地に建つ自宅を処分し、そのお金を、個人事務所の代表取締役兼マネジャーのAさん、友人のBさん、縁戚のCさん、Aさんの親友だったDさん、2度目の夫・高橋昌也さんの再々婚相手でありながら、友情関係で結ばれたEさんの5人の友人で分割するよう定めた遺言書を作成していたそうで、
(高橋昌也さんは、加藤治子さんと離婚後、2度結婚しています)
2015年11月、加藤治子さんが他界されると、遺言書に従って、自宅が売却され、5人にそのお金が振り分けられたそうで、
加藤治子さんを知る関係者は、
単なる知人や友人が遺贈を受けると相続税が2割増しになりますが、それでも加藤さんは大切な友に“贈り物”がしたかったのでしょう。彼女はいつも電気をつけたまま休んでいましたが、最後の言葉は“今日は眠るから電気を消して”だったそうです
と、語っています。
映画女優として活動していた1941年、19歳の時、慶應義塾大学の学生だった加藤道夫さんと芥川比呂志さんに誘われて「新演劇研究会」に参加すると、以降、舞台を中心に、主演級女優として活躍した、加藤治子(かとう はるこ)さん。 …