松竹少女歌劇団を経て、1940年、19歳の時、「嫁ぐ日まで」で映画デビューするも、23歳の時、黒澤明さんと結婚すると、わずか5年の活動で芸能界を引退した、矢口陽子(やぐち ようこ)さん。
今回は、矢口陽子さんの、夫・黒澤明さんとの馴れ初めや結婚後の夫婦関係などについてご紹介します。
「【画像】矢口陽子の生い立ちは?若い頃から死去までの出演映画は?」からの続き
矢口陽子の夫・黒澤明との馴れ初めは?
矢口陽子さんは、1945年3月、23歳で、黒澤明さんと結婚しています。
矢口陽子さんは、1944年、黒澤明さんが監督を務めた映画「一番美しく」に出演したことがきっかけで、黒澤明さんと知り合うと、
黒澤明さんから、たくさんの手紙をもらって口説かれ、この映画の完成直後、黒澤明さんにプロポーズされて結婚したそうですが、
矢口陽子さんは、黒澤明さんについて、
(撮影中)うるさい中にも急所をついて注意してくれる方
と、語っており、
そんなところが尊敬でき、結婚したそうで、山本嘉次郎監督夫妻の媒酌で、明治神宮で結婚式を挙げたのだそうです。
(黒澤明さんがプロデューサーの森田信義さんに勧められて矢口陽子さんと結婚したという話もあり、結婚のいきさつについては、諸説あります)
矢口陽子は黒澤明と結婚後は内助の功に徹していた
結婚後、矢口陽子さんは、映画界とはきっぱり関係を絶ち、家庭に入り、黒澤明さんが気持ちよく映画を撮れるように、黒澤明さんのサポートに専念したそうで、
家庭のことはもちろん、親戚付き合い、お金のことなど、すべて矢口陽子さんが担当し、黒澤明さんには仕事のこと以外、何も考えなくてもいい環境を作っていたといいます。
ちなみに、娘の黒澤和子さんによると、矢口陽子さんは、特に料理が上手で、その料理を食べさせたくて、黒澤明さんは人を家に呼んでいたそうですが、
お正月は特に人が多く、入れ替わり立ち替わり100人ほども来るため、矢口陽子さんは、100人分のおせち料理を作るため、年末年始は大忙しだったそうで、
黒澤和子さんは、そんなお母さんの矢口陽子さんについて、
母は気風がよくて、明るくて、父より男らしかったんじゃないでしょうか。父が黙っているときは、たいてい映画の構想を練っているので、母の話をほとんど聞いていません。
同じ話を3回繰り返して、「あ、聞いていないわね。こういうときは言っても無駄ね」と、さっぱりしたものでした。そんな母でなければ父の妻は務まらなかったでしょうし、黒澤映画の陰の首謀者は母だったと思います。
と、語っています。
矢口陽子は黒澤明と結婚後も映画界に復帰することを望んでいた
ただ、矢口陽子さんは、1949年、「アサヒグラフ」のインタビューで、
(長男の黒澤久雄さんが5歳になったことから)もう一度カムバックして個性のある脇役をやってみたいと思います。黒澤の演出する女性はいつも気の強い女性ばかりですが、もっと、女のやわらかい面を表したものを撮ってもらいたいと思います。
と、語っており、
映画界に復帰する意志があることを明かしていました。
とはいえ、実際には、結婚前の1944年を最後に映画には出演していないことから、女優復帰は叶っておらず、
夫である黒澤明さんが、その後、”世界のクロサワ”となっていくにつれ、矢口陽子さんもますます夫のサポートに忙殺されるようになっていったのかもしれませんね。
(矢口陽子さん出演の、1946年公開の映画「煉瓦女工」は、1940年に完成したものの、戦前の検閲を通過できず、戦後に公開されたものだそうです)
「矢口陽子の子供は息子と娘!長男は黒澤久雄!長女は黒澤和子!」に続く
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