1939年、28歳の時、上海のナイトクラブ「カサノバ」でダンサーとしてデビューすると、戦前・戦中という激動の時代に、上海で大成功を収めた、和田妙子(わだ たえこ)さん。

そんな和田妙子さんは、朝鮮半島で誕生すると、幼い頃は、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうですが、朝鮮半島の女学校を卒業後、結核にかかったことがきっかけとなり、日本に帰国すると、幼い頃から憧れていたダンサーの夢を追って、16歳の時に松竹楽劇部(SKD)に入団したといいます。

今回は、和田妙子さんの、幼少期(生い立ち)からスパニッシュダンサーの川上スズコさんに師事するまでをご紹介します。

和田妙子

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和田妙子のプロフィール

和田妙子さんは、1911年、
朝鮮半島の忠清南道大田(テジョン)生まれ、
(朝鮮半島の鎮南浦(チンナンポ)育ち)

だそうです。

和田妙子の本名は?芸名の由来は?

和田妙子さんは、芸名を「マヌエラ」と言うのですが、これは、反日感情が強い中国でダンサーとして活動するにあたり、日本人であることを隠すため、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」と名乗ることにしたのだそうです。

(和田妙子さんは、スパニッシュダンスを踊っていたことから、スペイン名の「マヌエラ」としたのだそうです)

ちなみに、「和田妙子」は本名で、

(旧姓は「山田妙子」)

元女優の内藤洋子さんは、姪っ子です。

和田妙子は幼い頃は朝鮮で裕福な家庭で何不自由なく育っていた

和田妙子さんは、実業家のお父さんと良家の出身だったお母さんのもと、朝鮮半島で誕生すると、幼い頃は、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。

ちなみに、和田妙子さんのお母さんは、若い頃、とてもきれいな人だったそうで、街を歩くと、男の人がみな振り返って見るほどだったそうですが、

和田妙子さんも、そんなお母さんに似たのか、子どもの頃から、外国人の血が入っているのではないかと言われるほど、日本人離れした容姿をしていたといいます。

(ただ、和田妙子さん本人は、それがすごく嫌だったそうです)

和田妙子は17歳の時に松竹楽劇部(SKD)に入団していた

和田妙子さんは、朝鮮半島の鎮南浦(チンナンポ)にある女学校を卒業したそうですが、

1927年、16歳の時、結核にかかってしまったことをきっかけに、お母さんと一緒に日本へ帰国したそうです。

そして、幼い頃からダンサーに憧れていたことから、お父さんの反対を押し切り、松竹楽劇部(SKD)の試験を受けると、見事、合格したそうで、1928年、17歳の時、SKDに第一期生として入団したのだそうです。

ちなみに、和田妙子さんは、芸名を「水の江たき子」と名付けられたそうですが、ひらがなが気に入らず、本来、「東路道代」を名乗るはずだった、同期の三浦ウメ子さんと名前を交換してもらって、「東路道代」と名乗ったそうですが、

この三浦ウメ子さんが、後に、日本の少女歌劇史上初めて男役を務め、”男装の麗人”と称された、水の江瀧子(みずのえ たきこ)さんです。

和田妙子は17歳で結婚するも1年数ヶ月で夫と死別していた

すると、和田妙子さんは、同年(1928年)、SKDの振付師の先生と結婚したそうで、1930年頃には、18歳で第一子を出産したそうですが・・・

結婚してから1年と数ヶ月で、夫が他界してしまったといいます。

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和田妙子は23歳で川上スズコに師事しスパニッシュダンスを学んでいた

そんな和田妙子さんは、夫が他界した後も、ダンスを続けたそうですが、スパニッシュダンスが好きだったことから、当時、日本で一番うまいと言われていたスパニッシュダンサーの川上スズコさんに師事したそうです。

また、和田妙子さんは、ジャズ歌手のリッキー宮川さんがしばしば公演をしていた「歌と踊りのイルミナーテ」の前座としてダンスを披露していたことがきっかけで、1934年、23歳の時には、リッキー宮川さんと再婚。

ただ、リッキー宮川さんとは、4年後の1938年に離婚したといいます。

「【画像】和田妙子(マヌエラ)の若い頃は?デビューから死去までの経歴を時系列まとめ!」に続く

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