喜多嶋修の若い頃は?加山雄三とランチャーズ!アルバムは?


高校時代から、加山雄三さんのバンド「ザ・ランチャーズ」でギターを担当すると、1967年、大学入学後には、作曲を手がけた「真冬の帰り道」がヒットを記録した、喜多嶋修(きたじま おさむ)さん。そんな喜多嶋さんのルーツについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

喜多嶋さんは、1949年2月3日生まれ、
神奈川県茅ヶ崎市のご出身、

学歴は、
慶應義塾大学商学部卒業、

ちなみに、喜多嶋修は本名ですが、
「ジャスティン・ヒースクリフ」名義で活動されたこともありました。

また、母方の従兄弟には、俳優の加山雄三さんがおられます。

そして、高祖父は、500円札にもなった、幕末から明治にかけて活躍した政治家、岩倉具視だそうです。(ちなみに、井川遥さんのご主人である、松本与さんのお母さんも岩倉卿の玄孫(やしゃご)だそうです)


岩倉具視卿

若い頃は加山雄三と

喜多嶋さんは、幼い頃よりピアノのレッスンを受け、中学生でクラシック・ギターをマスターすると、高校生の時には、「ベンチャーズ」を聴いたことがきっかけで、エレキ・ギターに熱中し、

お兄さんの瑛さん(ドラムス)、友人の大矢茂さん(ベース)とともに、従兄弟である加山雄三さんのバンド「第2期ランチャーズ」(エレキ・インストに特化したベンチャーズ・スタイルのバンド)にギタリストとして参加するなど、加山さんとのレコーディングセッションを通して、音楽制作を学びます。

(加山さんの主演映画「若大将シリーズ」の演奏シーンで使うため、バンド「ザ・ランチャーズ」が結成され、加山さんもバンドに参加されていたのですが、他のメンバーとのスケージュールが合わなくなってバンドは自然消滅。その後、新たに「第2期ランチャーズ」が結成されたのでした)

そして、翌年の1965年、「エレキの若大将」に主演した加山さんが一躍脚光を浴びたことで、1966年2月、「加山雄三とザ・ランチャーズ」名義でリリースされたアルバム「恋は紅いバラ~Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers」もヒットを記録。


「恋は紅いバラ~Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers」

喜多嶋さんはまだ高校生でしたが、このアルバムのほか、「加山雄三のすべて~ザ・ランチャーズとともに」でも加山さんの作品に参加し、ギターを弾くだけではなく、アレンジやサウンド作りにも積極的にアイディアを提供し、加山さんの活動を支えたのでした。


(左から)加山雄三さん、喜多島修さん、喜多島瑛さん、大矢茂さん。

「恋は紅いバラ~加山雄三アルバム~(Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers)」は、今もなお、日本のポピュラー音楽史に残る重要アルバムとして、高く評価されています)

「第3期ランチャーズ」で「真冬の帰り道」がヒット

その後、喜多嶋さんは、大学入学後の1967年4月、お兄さんや大学のクラスメイト渡辺有三さんらと共に、加山さんから独立した「第3期ランチャーズ」を編成し、

同年11月には、作詞家の水島哲さんとコンビを組み、ファーストシングル「真冬の帰り道」でデビューすると、気品溢れるバロック調サウンドとシンプルなメロディーがたちまち人気を博し、オリコンチャート23位にランクイン。


「真冬の帰り道」

ちなみに、この曲は、ビートルズから強い影響を受けた喜多嶋さんの真骨頂で、B面に収録されている「北国のチャペル」では、さらにビートルズ色が強く反映されており、

続く、アルバム「フリー・アソシエイション」(1968年12月発売)、「OASY王国」(1969年9月発売)へと引き継がれていったのでした。

「ランチャーズ」のほぼ全ての作品は、喜多嶋さん(作曲)と水島さん(作詞)のコンビで制作されています)


(左から)渡辺有三さん、喜多嶋瑛さん、喜多嶋修さん、大矢茂さん。

ジャスティン・ヒースクリフ

ただ、喜多嶋さんは、かねてから日本の録音技術に不満を抱いていたそうで、本場のレコーディング現場を体験したいと、1969年には単身渡英。(「ランチャーズ」は、1stアルバム以降、パッとせず、1970年3月、6thアルバム「マドレーヌ」を最後に解散)

そして、たまたまロンドンの「モーガン・スタジオ」をアポなしで尋ねたところ、偶然にも、デビュー・アルバムを制作中のキング・クリムゾンと遭遇したそうで、

それだけでも幸運なのですが、レコーディングの模様を見学させてもらえたうえ、スタジオのエンジニアから最新機材の説明や録音テクニックまで伝授してもらうという、さらなる、ありえない幸運に恵まれます。


当時の喜多嶋さん

そこで、喜多嶋さんは、そのすべてをノートに記録されたそうで、帰国後は、当時、東芝レコードのエンジニアだった吉野金次さんと共に、毎晩のように、ノートの記述をもとにスタジオで研究と実験を繰り返したそうで、


吉野金次さん(左)と喜多嶋さん。

1971年6月、その研究と実験を結実させた、初のソロ・アルバム「ジャスティン・ヒースクリフ」を、「ジャスティン・ヒースクリフ」名義でリリースしたのでした。


ジャスティン・ヒースクリフ<2017リマスター>

(かねてより影響を受けていたビートルズ色が強く反映された、前述のアルバム「フリー・アソシエイション」「OASY王国」の結実でもあったようで、細野晴臣さん、大瀧詠一さんが在籍したバンド「はっぴいえんど」にも多大な影響を与えたそうです)

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アルバム「弁才天」でセンセーションを巻き起こす

その後、喜多嶋さんは、ロンドンに移住し、現地のミュージシャンたちと交流を重ねていたのですが、そのうち、日本人としてのアイデンティティに目覚めていったそうで、

1972年には帰国し、琵琶奏者の平山眠水・万佐子親娘に師事して、薩摩琵琶の修業を開始すると、

1974年には、アメリカ・ロサンゼルスに移住し、ロサンゼルスを拠点に世界に視野を向けた音楽活動を展開。幼い頃から馴染み親しんだ西洋ポップスと、日本古来の音楽との融合を模索し、ついに、1975年、それを最初に作品として完成させたアルバム「弁才天」をリリース。


Benzaiten

そして、翌年の1976年、同アルバムをアイランド・レーベルからリリースして世界デビューを果たすと、一躍、センセーションを巻き起こしたのでした。

その後も、喜多嶋さんは、1979年にリリースしたアルバム「竜王」が全米ジャズ・チャートで第25位にランクイン、1984年にリリースしたアルバム「Face To Face」は、なんと、ロサンゼルス・ジャズ・チャートで栄えある第1位、

1989年にも、「California Roll」がビルボード誌ニューエイジ・チャートで第25位にランクインするなど、1980年代後半からブームになりつつあった、ニューエイジ&ヒーリング・ミュージックの第一人者として世界を舞台に活躍されたのでした。


「California Roll」

(ただ、西洋ポップスと日本古来の音楽との融合は、「弁才天」のみで、後は西洋ポップス色の濃い作品となっているようです)

「喜多嶋修の現在は?石川さゆりと不倫?娘は喜多嶋舞!妻は内藤洋子!」に続く

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