「仁義なき戦いシリーズ」で邦画史に残る大ヒットを記録するほか、「蒲田行進曲」「里見八犬伝」「バトル・ロワイアル」など多くの話題作で有名な、深作欣二(ふかさく きんじ)さん。今回は、そんな深作さんの生い立ちから、「お荷物監督」とまで言われた、芽が出なかった時期についてご紹介します。
年齢は?出身は?本名は?
深作さんは、1930年7月3日生まれ、
茨城県東茨城郡緑岡村(現・水戸市)のご出身、
学歴は、
茨城大学教育学部附属中学校
⇒水戸第一高等学校
⇒日本大学芸術学部卒業
ちなみに、深作欣二は本名です。
中学生の時は戦争中で死と隣り合わせ
深作さんが中学生の時、日本は太平洋戦争真っ只中で、毎晩空襲があり、いつ爆弾が落ちてくるか、機銃掃射を食らうか分からない状況だったため、夜寝るときにも、枕元に靴を置き、ゲートルを履いたまま寝ていたそうで、そのため安眠することなどできなかったそうです。
また、深作さんは、勤労動員として、兵器工場に通われていたのですが、軍国主義時代だっため、「男はヒロイックであらねばならない」との教育を受けたそうで、これは、「卑怯未練(ひきょうみれん)」ではいけない、という意味だったのですが、
いざ空襲があると、そんな教育もどこかへ吹っ飛び、友達の腹の下に潜り込む、というような、本能の赴くままに行動してしまったそうで、いつも、後になって振り返ってみると、そんな自分を恥ずかしいと思い、友達と視線を交わすのを避けて、ひたすら黙り込んでいたそうです。
ただ、友達も、お互い様と、そのことをお互いとがめずにいるのが日常だったそうで、深作さんは、後に、そんな死と隣り合わせの毎日について、
いつ死んでも不思議はない。だから死ぬことは怖いとは、想像力の問題もありますけど、怖いとは思ってなかったけど、ケガして痛い思いするのは嫌だな。
片腕飛んだり、片足飛んだりなんてのは、命があればいいなんてもんじゃなくて、むしろ命なくすよりもそういう片腕なくしたり片足なくしたりして痛い思いするのが嫌だなというのが、本当にその頃の実感だったんですよね。だから死ぬことは怖くなかった。
と、語っておられます。
千葉真一主演「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で監督デビュー
その後、深作さんが中学3年生の時、戦争は敗戦で終戦を迎えるのですが、戦争が終わったことで、今までの様々な価値観があっけなく崩れたそうで、
社会の矛盾や大人たちへの反感が心に渦巻く中、「戦火のかなた」「自転車泥棒」などの、リアリズムあふれるイタリアのレジスタンス映画に共鳴し、映画監督を志すことに。
こうして、深作さんは、大学卒業後の1953年、「東映」に入社すると、1961年には「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で監督デビュー。
「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」より。若き日の千葉真一さん(右)。
この映画では、千葉真一さんが主演を務められているのですが(千葉さんにとっても映画初主演作品)、その後も千葉さんとコンビを組み、
1961年「風来坊探偵 岬を渡る黒い風」
1961年「ファンキーハットの快男児」
「ファンキーハットの快男児 二千万円の腕」
と、立て続けに作品を発表されたのでした。
(最終的には、千葉さんとは全17作品でコンビを組み、後にヒットを連発することになります)
「誇り高き挑戦」で評論家から高評価を得るも・・・
そんな中、深作さんは、「新東宝」から「東映」に移籍してきた石井輝男監督に触発され、1961年にギャング映画「白昼の無頼漢」を制作すると、1962年には、鶴田浩二さんと丹波哲郎さんを起用した、「誇り高き挑戦」を発表。
実は、この映画は、会社から、鶴田さんと丹波さんを起用して、「白昼の無頼漢」のようなギャング映画を作れということだったそうですが、
深作さんは、ギャング映画ではなく、アメリカ諜報機関の工作を背景に、占領下の日本で暗躍する武器商人を描いた反米色の強い社会派映画を制作し、興行的には失敗。
しかし、評論家からは高い評価を受け、深作さんの出世作となります。
「誇り高き挑戦」より。鶴田浩二さんと大空真弓さん。
ちなみに、鶴田さん演じる黒木は、大手新聞社の記者として、進駐軍内部の汚職を暴露するための取材を続ける中、リンチを受けた過去があり、その時に受けた目尻の傷と、巨大権力によって葬られようとした自身の心の傷を隠すため、終始サングラスをかけているという設定で、
鶴田さんは、そのことに対し、
俳優は目で演技するのに何故それを隠すのか?納得が出来ない
と、当時、新人監督の深作さんに抗議されたそうですが、
深作さんは、自らその演技の必要性を鶴田さんに訴えかけたそうで、どんな大物スター相手でも、徹底して自分の演出にこだわり、一切、妥協しなかったのだそうです。
(ラストシーン、国会議事堂の前で鶴田さんが初めてサングラスを外すシーンで、この演出の意味が分かります)
お荷物監督?
そして、1964年には、貧民街で育った3兄弟の物語、「狼と豚と人間」を発表。
「狼と豚と人間」より。(左から)高倉健さん、北大路欣也さん、三國連太郎さん。
しかし、この作品も、最低な貧民街を舞台に、
年老いた母のお金を奪って新興ヤクザに入り、顔役にしっぽをふる「豚」の長兄(三國連太郎さん)と、
母親を裏切ってあらゆる悪に手を染めていき、金のためなら命も張る「狼」の次兄(高倉健さん)と、
3兄弟の中で唯一、母親の最期を看取り、平和を求める乳臭いチンピラの末弟(北大路欣也さん)が、
お互い憎み合って殺し合いを繰り広げるという、あまりに陰惨な内容だったためか、これまた興行的には大失敗。
その後も、スピード感とテンポのある演出で、評論家からは高評価を得るものの、ヒット作は出ず、やがて、深作さんは、「東映」内で、「お荷物監督」と言われるようになっていったのでした。
「深作欣二の昔は?富司純子の推薦も中原早苗との交際で脚本進まず?」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=_D78rzrGfw0