戦時下の上海において、「マヌエラ」を名乗り、類まれな美貌と卓越したダンスで人々を魅了すると、帰国後は、ナイトクラブを経営するなど、精力的に活動した、和田妙子(わだ たえこ)さん。
そんな和田妙子さんは、プライベートでは、結婚を3回、死別を1回、離婚を1回しています。
今回は、和田妙子さんの、元夫、再婚相手、3番目の夫、子供(娘)についてご紹介します。
「【画像】和田妙子(マヌエラ)の若い頃は?デビューから死去までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
和田妙子は元夫(最初の夫)と2年足らずで死別していた
和田妙子さんは、松竹楽劇部(SKD)在籍中の1928年、17歳の時、両親と松竹の猛反対を押し切り、松竹楽劇部(SKD)の振付師の先生と結婚しています。
そして、18歳の時には第一子を出産するのですが・・・
結婚してから1年と数ヶ月で、夫が他界してしまったそうで、
和田妙子さんは、棺の中に花を入れながら、好きな人はできるかもしれないけれど、踊りだけは絶対に続けること、踊りで有名になってみせること、どのような状態になっても子供はちゃんと育てることを、亡き夫に約束したのだそうです。
和田妙子の再婚相手(2番目の夫)はリッキー宮川
その後、和田妙子さんは、1934年、23歳の時、ジャズ歌手のリッキー宮川さんと再婚しています。
リッキー宮川さんは、コロムビアの専属歌手で、「歌と踊りのイルミナーテ」という公演をよく開催していたそうですが、和田妙子さんは、この公演の前座でダンスを披露していたといいます。
ただ、4年後の1938年には離婚したそうです。
和田妙子の3番目の夫は実業家の和田忠七
その後、和田妙子さんは、1943年、32歳の時には、実業家(実際は陸軍の工作員)の和田忠七さんと3度目の結婚をしています。
(和田忠七さんは、上海日本人街で「大和洋行」を設立していたそうですが、和田妙子さんのダンスの大ファンだったそうです)
実は、和田妙子さんと和田忠七さんが知り合った時、和田忠七さんは既婚者だったそうですが、和田忠七さんは、和田妙子さんと結婚するため、妻を日本に帰し、その後、妻と離婚したそうで、
終戦後の1946年、和田妙子さんは、和田忠七さんと共に日本に帰国したのだそうです。
ちなみに、和田妙子さんは、和田忠七さんと出会った時のことについて、
彼は私の踊りに夢中だった人。あの人は日本人街に住んでたんですよね。あの人は私というよりも(ダンスが好きだった)。
奥さんがいましたからね。とにかく私の踊りが好きで好きであんたに惚れたんじゃなくて踊りに惚れたってはっきり言う人。
そのうちに私を本当に好きになって奥さんを日本に返しちゃったの。
私絶対に奥さんがいる人と結婚しませんって言ったものだから本当に離婚しちゃったの。そのとき私困っちゃった
と、語っています。
和田妙子と夫・和田忠七の夫婦仲は?
そんな和田妙子さんと和田忠七さんの夫婦仲ですが、
和田妙子さんは、2002年にトーク番組「徹子の部屋」に出演した際、作家の三島由紀夫さんの話をする流れの中で、
そう三島由紀夫さんね、あの自殺なすった前の日に会っているの、帝国ホテルで。
私、娘を連れて帝国ホテルに行ってご飯を食べて、食べ終わってパパ(和田忠七)が迎えに来るのをポケーと待っていたら向こうから三島さんが来たの
と、語っているほか、
和田妙子さんの墓石には、
和田忠七 妻 妙子 我は復活なり 生命なり 山田富紗子
と、刻まれているそうで、
(和田妙子さんは、クリスチャンだったことから、十字架が刻まれた洋型の墓石になっているそうです)
つつがない夫婦生活を送っていたことが伺えます。
和田妙子の子供は少なくとも娘が1人
和田妙子さんは、子供について、「娘」と語っていることから、少なくとも、娘が1人いることは確かです。
(和田妙子さんは、18歳の時に、最初の夫(松竹楽劇部(SKD)の振付師の先生)との間に、子供(第一子)を出産しているのですが、この第一子が娘さんであるかは不明です)
ちなみに、和田妙子さんは、娘さんについてほとんど語っていないため、娘さんは芸能関係者ではないと思われます。
(娘さんは、2025年現在、ご存命であれば、95歳ということになります)
1939年、28歳の時、上海のナイトクラブ「カサノバ」でダンサーとしてデビューすると、戦前・戦中という激動の時代に、上海で大成功を収めた、和田妙子(わだ たえこ)さん。 そんな和田妙子さんは、朝鮮半島で誕生すると、幼い頃 …