戦時下の上海において、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」として絶大な人気を誇ると、終戦後は、日本に帰国し、ナイトクラブの経営者として日本のジャズシーンの発展に大きく貢献した、和田妙子(わだ たえこ)さん。
今回は、そんな和田妙子さんの、若い頃から他界されるまでの経歴をデビューから時系列でご紹介します。
「和田妙子(マヌエラ)の生い立ちは?幼少期は朝鮮で裕福な家庭で育っていた!」からの続き
和田妙子は27~28歳頃にダンサーとして上海で活動を始めていた
和田妙子さんは、1938年にリッキー宮川さんと離婚した後、ダンサーとしてアメリカで活動したいと考えていたそうですが、
アメリカの友人に、
(アメリカにはいいダンスがないから)ダンスをするなら世界中の舞踏家が集まる上海に行きなさい
と、アドバイスされ、中国の大連を経て、上海に渡航すると、
上海では、アメリカ人のハロルド・ミルズさんと知り合い、フランスのムーランルージュ(キャバレー)で女形をやっていたという、ドン・パスコーラさんを紹介してもらったそうで、ドン・バスコーラさんから本格的にスパニッシュダンスを学んだそうです。
(後に、アメリカ人のハロルド・ミルズさんには、マネージャーをしてもらうようになったそうです)
和田妙子は28歳の時に上海の高級クラブ「カサノバ」でダンサーデビュー
とはいえ、和田妙子さんは、日本に子供を残してきていたことから、子供への仕送りと自身の生活のため、あまり好きではなかった、ナイトクラブでのフロアショーのダンスで生計を立てていたそうですが、
1939年、28歳の時、(当時、日本人が入り込むことができなかった)フランス租界や米英共同租界の高級ナイトクラブ「カサノバ」で、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてデビューすると、
たちまち、得意のスパニッシュダンス「ペルシャンマーケット」(ペルシャの市場)で人気を博したのでした。
和田妙子は20代後半に上海で爆発的な人気を誇っていた
さらに、和田妙子さんは、その後、「魔都の花」「エキゾチック・マヌエラ」「ミステリアス・マヌエラ」などと称され、上海の高級クラブを席巻すると、
上海一の繁華街・南京路の朝鮮銀行の壁に、「ペルシャンマーケット」を踊る和田妙子さんの大きな写真が飾られたほか、
米海兵隊のマーチングバンドは、和田妙子さんの写真の前を通る時、演奏する曲を国歌から「ペルシャンマーケット」に変えたとも言われており、和田妙子さんの人気がいかに凄まじいものだったかが伺えます。
和田妙子は30歳の時にスカウトされてハリウッドデビューを決心するも日米開戦となり断念していた
そんな和田妙子さんは、1941年、30歳の時には、ユニバーサル映画の副社長・サーキン氏にスカウトされたそうで、ハリウッド進出を決心し、すぐに荷物をアメリカに送ったそうですが・・・
その日が12月4日だったそうで、4日後の12月8日に(真珠湾攻撃で)日米開戦となり、渡米することができなくなってしまったのだそうです。
(しかも、和田妙子さんは、開戦後、連合国側のスパイと疑われ、日本の憲兵隊に身柄を拘束されたこともあったそうです)
和田妙子は終戦後の35歳の時に和田忠七と3度目の結婚をし日本へ引き揚げていた
そんな中、和田妙子さんは、1943年、32歳の時には、和田妙子さんのダンスの大ファンだったという、実業家の和田忠七さんと知り合うと、和田忠七さんと3度目の結婚をしたそうで、
終戦後の1946年、35歳の時、和田忠七さんと共に日本に引き揚げたのだそうです。
和田妙子は終戦後は喫茶店「モレナ」、ナイトクラブ「マヌエラ」をオープンしていた
その後、和田妙子さんは、東京のNHKの側に、喫茶店「モレナ」を経営したそうですが、その後、東京都千代田区の内幸町に、戦後初のナイトクラブ「マヌエラ」をオープンしたそうで、
オープニングの司会をマルチタレントのE・H・エリックさんが務めたことから、E・Hエリックさんの弟の岡田眞澄さんをはじめとする俳優のほか、文豪・三島由紀夫さんなど、各界の著名人が数多く訪れたそうです。
また、「マヌエラ」は日本のジャズマンたちの登竜門となり、ジョージ川口さん、マーサ三宅さん、前田憲男さんなどを育てたそうで、和田妙子さんは、”戦後日本のジャズの育ての母”と呼ばれたのでした。
和田妙子の死因は?90代でも精力的に活動していた
そんな和田妙子さんは、1991年、80歳の時に、日本舞踊を習い、2001年、90歳の時には、著書「上海ラプソディー~伝説の舞姫マヌエラ自伝~」を出版するほか、
2002年、91歳の時には、トーク番組「徹子の部屋」に出演するなど、精力的に活動していたのですが、
2007年5月18日、東京都八王子市の病院で、心不全により、95歳で他界されています。
「和田妙子の元夫は?再婚相手は?3番目の夫は?子供は娘が1人?」に続く
戦時下の上海において、「マヌエラ」を名乗り、類まれな美貌と卓越したダンスで人々を魅了すると、帰国後は、ナイトクラブを経営するなど、精力的に活動した、和田妙子(わだ たえこ)さん。 そんな和田妙子さんは、プライベートでは、 …