1971年、25歳の時から、スタジオ・キーボード奏者として活動を始めると、クラシック、ロック、ニューミュージックなど様々なジャンルの音楽を取り入れた楽曲を制作し、

日本人初のピアノ弾き語りシンガーソングライターとして活動するほか、シンセサイザー奏者の第一人者としても活躍した、深町純(ふかまち じゅん)さん。

そんな深町純さんは、3歳の時、本格的にピアノのレッスンを開始すると、抜群の才能を発揮して”神童”と呼ばれ、高校生の時には、オペラの指揮や演出を手掛けるまでになっていたといいます。

今回は、深町純さんの、幼少期(生い立ち)からスタジオ・キーボード奏者として活動するまでをご紹介します。

深町純

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深町純のプロフィール

深町純さんは、1946年5月21日生まれ、
東京都渋谷区原宿の出身、

学歴は、
東京都立大泉高等学校
⇒東京芸術大学音楽部作曲科中退

ちなみに、「深町純」は本名で、「馬場浩」名義を使用していたこともあったそうです。

深町純は幼い頃からピアノの才能を発揮し”神童”と呼ばれていた

深町純さんは、画家で高校の美術教師だったお父さんの辰夫さんと、ピアノ教師だったお母さんのテルさんのもと、長男として誕生すると、2歳の時には、聴いた曲をピアノで再現できるなど、早くから才能を発揮したそうで、

3歳の時、本格的にピアノを習い始め、数名の一流教師のもと、音楽教育を受けると、抜群の才能を発揮し、周囲の人々から”神童”と呼ばれたのだそうです。

とはいえ、幼い子供にとって、その練習はとても大変なものだったといいます。

深町純
幼少期の深町純さん。

深町純は父親の夢を託されていた

実は、深町純さんのお父さんは、若い頃は画家を目指していたそうですが、プロにはなりきれず、生活のために、英語教師となっていたそうで、

その後、なんとか、自分のしたいことと生活の為の仕事との距離を縮めたいと思い、苦労の末に図工の教師の資格を取り、高校の絵画教師となっていたそうですが、

自分の叶えられなかった芸術への夢を子どもたちに託そうと、長男の深町純さんには、ピアニストにさせるべく、自分たちの生活を徹底的に切りつめ、3歳の時から一流教師によるピアノレッスンを受けさせたのだそうです。

深町純は高校生の時にはオペラの指揮や演出を手掛けるようになっていた

さておき、深町純さんは、高校生の時には、オペラの指揮や演出を手掛けるまでになったそうですが、

高校卒業後は、(体が弱かったのか)演奏家になることをあきらめ、東京芸術大学音楽部作曲科に入学したそうです。

深町純は東京芸術大学卒業の10日前に中退していた

その後、深町純さんは、大学在学中から、プロの音楽家として活動を始めたそうですが、

“東京芸術大学卒”という肩書きを返上し、音楽界での虚名の権威を拒否して、東京芸術大学を卒業する10日前に中退したといいます。

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深町純は25歳の時にスタジオ・キーボード奏者として活動を開始していた

そして、東京芸術大学中退後の1969年には、ドフトエフスキー原作の舞台「白痴」の音楽監督を担当(日生劇場)すると、1971年には、スタジオ・キーボード奏者としての活動を開始し、

同年、浅川マキさんの「港の彼岸花」(1971年4月5日リリース)とジローズの「新しい歌/ジローズ2」(1971年8月5日リリース)の2枚のシングルに、ピアニストとして参加しています。

「深町純の若い頃から死去までのアルバムほか経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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