1981年3月5日、14歳にして、テクノポップバンド「コスミック・インベンション」のメンバーとして、「YAKIMOKI」でレコードデビューした、井上ヨシマサ(いのうえ よしまさ)さんですが、
デビュー前は、ジャズのスタンダードナンバーを演奏していた「コスミック・インベンション」が、美少女ドラマー・森岡みまさん中心のバンドに変わり、ディレクターに曲の相談をするうち、自分でも曲を作るようになったといいます。
今回は、井上ヨシマサさんの若い頃(「コスミック・インベンション」時代)の活動や経歴を時系列でご紹介します。
「井上ヨシマサの生い立ちは?ハーフ?幼少期からピアノにジャズ!中1でビックバンド!」
井上ヨシマサは中学2年生の時に「コスミック・インベンション」として「YMO」の日本武道館公演で前座を務めていた
井上ヨシマサさんは、1979年、中学1年生の時に、テクノポップバンド「コスミック・インベンション」に加入しているのですが、「コスミック・インベンション」は、小中学生により結成されていたことから、たちまち、評判となったそうで、
1980年末(井上ヨシマサさん中学2年生)には、細野晴臣さんに誘われ、「YMO」の日本武道館公演で、「コスミック・インベンション」として前座を務めたといいます。
ただ、井上ヨシマサさんは、その時のことについて、
面白いから、今度の日本武道館公演で、『YMO!』って紹介したら、この子たちが弾いてるのとかどう? って細野さんが言い始めたそうです。
僕らはいいけど、ファンの人はどうなのと思いましたけれど、案の定、『違うじゃねぇか』とブーイング(笑)。
しかも僕らはドンカマ(リズムのガイド音)に合わせて演奏するのにも慣れてなくて。8分音符分ずれてて、『ドラムのみまちゃんひどいな』と思ってたんですけど、最近、YouTubeで当時の映像を見たら、僕が走ってました(苦笑)ごめん
と、語っています。
井上ヨシマサは14歳の時に「コスミック・インベンション」として「YAKIMOKI」でレコードデビュー
また、井上ヨシマサさんは、同時期、NHKの音楽番組「レッツゴーヤング」に初めて出演するほか、
1981年3月5日、14歳の時には、「コスミック・インベンション」として、ビクター音楽産業から、「YAKIMOKI」でレコードデビューを果たしています。
「YAKIMOKI」
井上ヨシマサは14歳の時に初めて作曲していた
すると、それまで、「A列車で行こう」のようなジャズのスタンダードナンバーを演奏していた路線から、(ドラムを担当していた森岡みまさんが美少女だったことから)森岡みまさんを中心に売っていく方針になり、
井上ヨシマサさんは、違和感を抱き、ディレクターの田村充義さんに、自分の気持ちを打ち明け、曲のことを相談するようになったそうで、
そのうち、自分でも曲を作りたいと思うようになり、その旨を田村充義さんに伝え、田村充義さんと相談しながら、ビクターのピアノルームで初めて作曲すると、以降、バンドの曲を書くようになったのだそうです。
(初めて作曲した曲は、元「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」でプロデューサーの小田啓義さんにも褒められたそうです)
井上ヨシマサは高卒後は作曲家を志していた
そして、1982年(井上ヨシマサさん16歳)、「コスミック・インベンション」が解散すると、井上ヨシマサさんは、高校卒業後は大学に進学せずに、音楽の道を模索することとしたそうで、
自分で作曲した曲のデモテープをディレクターの田村充義さんに持っていき、聴いてもらうと、
いいね、曲を集めてアルバムができたら
と、認めてもらったそうで、
井上ヨシマサさんは、作曲家としての道を歩き始めたのだそうです。
「【画像】井上ヨシマサの若い頃は?AKB前の代表曲(作曲)や経歴は?」に続く
1985年、小泉今日子さんに楽曲「Someday」を提供し、作曲家としての活動を開始すると、以降、1990年代に渡り、アイドルを中心に数々の楽曲提供をし、ヒットを連発した、井上ヨシマサ(いのうえ よしまさ)さん。 今回は …