大学2年の時、青森放送のラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビューすると、以降、「北の国から」シリーズ、「前略おふくろ様」シリーズ、「風のガーデン」「優しい時間」「やすらぎの郷」など、数々の手掛けたドラマがヒットした、倉本聰(くらもと そう)さん。

そんな倉本聰さんは、幼い頃、裕福な家庭でのびのびと育つと、俳人だったお父さんに手ほどきを受けて俳句を作り、

進学した中学校では、演劇が盛んだったことから、演劇に興味を持つようになると、高校時代には、映画とお芝居に夢中になったそうで、大学時代には脚本家を志し、大学2年の時には、青森放送のラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビューを果たしています。

今回は、倉本聰さんの、幼少期(生い立ち)から大学時代(脚本家としてデビュー)までをご紹介します。

倉本聰

Sponsored Link

倉本聰が幼い頃は裕福な家庭でのびのびと育っていた

倉本聰さんは、敬虔(けいけん)なクリスチャンの両親のもと、裕福な家庭に生まれ育ったそうで、

幼い頃は、善福寺の豊かな自然に囲まれ、野原を駆け回り魚を獲るなど、のびのびと過ごすほか、

俳人であるお父さんの意向で、宮沢賢治の童話を音読したり、俳句を作ったりしたそうで、この経験が、文章のリズムや表現力を養う基礎となり、倉本聰さんのその後の創作活動に大きな影響を与えたそうです。

また、倉本聰さんは、お父さんとの野山歩きを通じて自然への深い愛着を育んだのだそうです。

倉本聰は10歳の時に東京大空襲を体験していた

そんな中、太平洋戦争が始まり、山形県へ学童疎開すると、食糧難や過酷な環境に耐えられなかったそうで、

仮病で帰京を試みるも、失敗し、その後、2度目の仮病が成功して縁故疎開が許され、1944年末に帰京することができたそうですが、

東京では激しい空襲が続き、1945年3月10日の東京大空襲では、夜空が真っ赤に染まるのを目の当たりにしたといいます。

(結局、翌4月には、家族とともに岡山県に疎開したのだそうです)

倉本聰は中学時代に演劇と出会い興味を持つようなっていた

そして、同年8月15日、岡山で終戦を迎えると、翌1946年3月、一家で東京の善福寺に戻ったそうで、倉本聰さんは、その後、中高一貫の男子校・麻布中学校に進学したのだそうです。

すると、この麻布中学校は演劇が盛んな学校だったから、倉本聰さんは、演劇に興味を持つようになったそうですが、

倉本聰さんは、演じることよりも書くことが好きだったため、演劇部の手伝いをしながら、言論部で、創作活動も始めたのだそうです。

倉本聰は2浪の末に東京大学に合格していた

そんな倉本聰さんは、高校時代には、映画やお芝居に夢中になったそうですが、

大学受験の時期になると、お母さんのたっての願いで東京大学を受験。

ただ、不合格となってしまったそうで、2浪の末、ようやく、東京大学に合格したのだそうです。

倉本聰は大学2年生の時に青森放送のラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビュー

こうして苦労して東京大学に入学した倉本聰さんですが、学業にはあまり身が入らなかったそうで、

映画や演劇に夢中になり、脚本家を志して俳優座のスタジオ劇団「仲間」の文芸部に参加すると、

雑用係からのスタートだったそうですが、演出現場に感動し、創作意欲を高めていったのだそうです。

そして、その後、大学1年生の時に、脚本「雲の涯」を手がけ、駒場祭で上演すると、大学へはほとんど通わず、アルバイトをしながら脚本を書き続けたそうで、

大学2年の時には、青森放送のラジオドラマ「鹿火」で脚本家デビューを果たしたのでした。

Sponsored Link

倉本聰はテレビ業界を志望するもラジオ局(ニッポン放送)に採用されていた

そして、就職を考える時期になると、テレビ業界を志望し、フジテレビを目指したそうですが・・・

採用されたのはニッポン放送(ラジオ局)だったといいます。

また、映画や演劇に夢中で、ろくに勉強していなかったことから、大学卒業が危ぶまれたそうですが、

親友の中島貞夫さんの助けを借りて猛勉強し、1959年には、無事、東京大学を卒業できたのだそうです。

「【画像】倉本聰の若い頃は?TV脚本家デビューからの代表作ほか経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link