1959年、24歳の時、テレビドラマの脚本家としても「パパ起きてちょうだい」でデビューすると、以降、数多くの名作を発表し、2000年には「紫綬褒章」、2010年には「旭日小綬章」も受章した、倉本聰(くらもと そう)さん。

今回は、そんな倉本聰さんの、若い頃(テレビ脚本家デビュー以降)からの脚本作品や経歴を時系列でご紹介します。

倉本聰

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倉本聰は24歳の時に誤って未放送分の録音テープを消していた

倉本聰さんは、1959年、24歳の時、ニッポン放送(ラジオ局)に入社すると、過密な業務をこなしながら、会社には内緒で、テレビ脚本も執筆していたそうですが、

ある日、誤って未放送分の録音テープを消してしまい、絶体絶命の状況に陥ったことがあったといいます。

倉本聰は24歳の時に「パパ起きてちょうだい」でテレビ脚本家デビュー

そんな倉本聰さんは、多忙なアシスタントディレクターとして働きながら、薄給を補うため、内緒で脚本のアルバイトを始めたそうですが、

これがきっかけとなり、1959年、24歳の時には、テレビドラマ「パパ起きてちょうだい」で脚本家デビューを果たしています。

倉本聰は28歳の時に「ニッポン放送」を退職

すると、1963年には、会社に内緒のまま、脚本を執筆していたテレビドラマ「現代っ子」が高視聴率を記録。

「現代っ子」
「現代っ子」より。

また、会社勤務と脚本執筆を両立する過酷な生活を続ける中、やがて自らの正体が社内にバレそうになったそうで、

1963年、28歳の時には、「ニッポン放送」を退職し、フリーの脚本家として活動しています。

倉本聰は39歳の時にNHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本担当を途中で降板させられていた

そして、1973年、38歳の時には、NHKから、1974年の大河ドラマ「勝海舟」の脚本のオファーを受け、執筆を開始すると、

病を押して出演を続ける主演の渡哲也さんの体調を心配して、NHKに渡哲也さんの降板を進言し、

「勝海舟」
渡哲也さんの「勝海舟」。

代役として、当時、人気急上昇だった松方弘樹さんを口説いて、キャスティングに成功しているのですが、

その後、ディレクターの勅使河原平八さんとの確執や、NHKの労働組合との衝突など、様々なトラブルが続き、

ついには、週刊誌の取材に対して、うっかりNHKの不満を漏らしたことで、翌1974年の途中で、大河ドラマ「勝海舟」の脚本担当を降板させられてしまったといいます。


倉本聰は39歳の時に札幌に逃避しトラック運転手への転職を考えていた

そんな倉本聰さんは、ショックのあまり、札幌へ逃避し、酒に溺れて、自暴自棄となり、本気でトラック運転手への転職も考えたそうですが、

フジテレビ社長ら仲間たちが励ましに訪れてくれたそうで、「今こそ脚本を書くべきだ」と、脚本の依頼と共に支援してもらい、再起を決意したといいます。

倉本聰は39歳の時に「6羽のかもめ」で脚本家として復帰を果たしていた

こうして、倉本聰さんは、1974年、「6羽のかもめ」で脚本家として復帰すると、

復帰後は、「前略おふくろ様」「大都会 闘いの日々」など、次々と脚本を執筆しています。

「6羽のかもめ」
「6羽のかもめ」より。

倉本聰は42歳の時に札幌から富良野へ移住していた

そんな倉本聰さんは、1977年秋、42歳の時には、便利な都会である札幌を離れて、過疎地である富良野に移住したそうで、

当初は、北海道の大自然の厳しさに苦しんだそうですが、やがて、現地の人と親しくなり、自然の中で生きる知恵に感動を覚え、すっかり富良野での生活が気に入ったといいます。

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倉本聰は46歳~47歳の時にテレビドラマ「北の国から」が大ヒット

そんな中、富良野に移住して3年目の1980年、プロデューサーから依頼されて執筆した「北の国から」(1981年10月~1982年3月)がテレビ放送されると、シリーズ化されるほどの大ヒットを記録。

「北の国から」は、現在も国民的人気ドラマとして親しまれています。

お読みいただきありがとうございました

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