1960年代後半、自ら結成したバンド「ザ・フィンガーズ」で頭角を現し、圧倒的なギターテクニックで注目を集めると、その後も、「ストロベリー・パス」、「フライド・エッグ」など、数々のバンドで日本のロック黎明期をけん引し、プログレやハードロック、フュージョンまで幅広い音楽性で後進のギタリストにも多大な影響を与えた、成毛滋(なるも しげる)さん。
今回は、成毛滋さんの、若い頃(プロデビュー)から他界されるまでのアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
「成毛滋の生い立ちは?高校で結成したザ・フィンガーズのアマチュア時代が凄い!」からの続き
成毛滋は20歳の時に「ザ・フィンガーズ」としてプロデビューするもギターを禁じられキーボードに転向していた
芸能界からの誘いも多かった成毛滋さんら「ザ・フィンガーズ」は、大学卒業間際となり、メンバーたちが就職とプロの道に分かれる中、
残ったメンバーの、成毛滋さん、髙橋信之さん、蓮見不二男(クリストファー・リン)さんは、シー・ユー・チェンさんら新メンバーを加えて、テイチク・レコ-ドと契約し、1967年3月1日(成毛滋さん20歳)、シングル「灯りない街」でレコードデビューを果たします。
ただ、成毛滋さんは、事務所からの指示でギターを弾くことを禁じられ、キーボードの担当を命じられたそうで、それまでキーボードの経験がなかった成毛滋さんは、苦戦しながら、キーボード奏者として活動を開始したといいます。
ちなみに、なぜ、成毛滋さんがギターを弾くこと禁じられ、キーボードに転向させられたのか、はっきりした理由は不明ですが、
当時の日本の社会背景として、エレキギターやロックは、一部から「非行・青少年問題の要因」として敬遠される風潮が強まっており、ロック・エレキへの社会的圧力回避のほか、当時の日本の音楽産業として、事務所側による音楽的・戦略的判断があったのでは、と考えられています。
成毛滋が22歳の時に「ザ・フィンガーズ」が解散
さておき、こうして、プロデビューを果たした「ザ・フィンガーズ」でしたが・・・
レコードの売り上げは芳しくなく、人気も低迷したため、1969年には、解散が決定。
ただ、解散決定後も、約2か月間はライブの予定が入っていたことから、”残務整理”として活動を続行すると、この期間中、成毛滋さんはギターに復帰したそうですが、
「ザ・フィンガーズ」は、解散が決まってからの方が人気が出るという皮肉な状況となってしまったそうです。
そして、”残務整理”期間が終了し、「ザ・フィンガーズ」が解散すると、成毛滋さんは、1969年8月、「ウッドストック・フェスティバル」を体験するため渡米したそうで、その後、イギリスにも渡り、さまざまな音楽的影響を受けたのだそうです。
(「ウッドストック・フェスティバル」とは、1969年8月15日午後から18日午前にかけての4日間、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサート)
成毛滋は22歳頃に「10円コンサート」を開催していた
帰国後、成毛滋さんは、知り合いのミュージシャンを集め、日比谷野外音楽堂で「10円コンサート」を主催したそうで、
横浜の人気バンド「パワー・ハウス」の柳ジョージさん、陳信輝さん、角田ヒロ(現・つのだ☆ひろ)さん、柳田ヒロさんら実力派ミュージシャンが集まり、大いに盛り上がったそうですが、
この「10円コンサート」は、その名の通り、誰でも参加できるようにと、入場料を10円に設定し、音楽の普及に努めたものだったそうで、当然、大赤字で、成毛滋さんが個人的に自腹でその補填をしたのだそうです。
(ちなみに、裕福な家庭の出身だった成毛滋さんは、プロになって頭角を現した後も、ずっと、”ぼんぼん”と批判されていたそうです)
成毛滋は23歳の時に「ジプシー・アイズ」を結成
そして、1970年には、当時、「ザ・ゴールデン・カップス」に在籍していた柳ジョージさん、角田ヒロ(現・つのだ☆ひろ)さんと共に「ジプシー・アイズ」を結成すると、
学園祭や日比谷野外音楽堂などでのライブ活動を中心に展開したそうです。
成毛滋は24歳の時に「ストロベリー・パス」としてアルバム「大烏が地球にやってきた日」をリリース
ただ、柳ジョージさんが、ソロでの活動が忙しくなり抜けることが多くなると、次第に、成毛滋さんと角田ヒロさんの2人での活動が多くなっていったそうで、
「ジプシー・アイズ」は、「ストロベリー・パス」と改名すると、1971年6月25日には、「ストロベリー・パス」として、オリジナルアルバム「大烏が地球にやってきた日」をリリースしています。
「大烏が地球にやってきた日」
(この「大烏が地球にやってきた日」には、後に、つのだ☆ひろさんのソロとして大ヒットする「メリー・ジェーン」の原曲「メリー・ジェーン・オン・マイ・マインド」が収録されています)
成毛滋は25歳の時「ストロベリー・パス」に高中正義を加え「フライド・エッグ」と改名
また、成毛滋さんは、同年(1971年)8月には、日本初の本格的な野外ロックフェスティバル「箱根アフロディーテ」に出演しているのですが、
この際、臨時のベーシストとして、当時17歳だった高中正義さんを迎えると、その後、高中正義さんが正式メンバーとなり、「ストロベリー・パス」は「フライド・エッグ(Flied Egg)」と改名。
その後、「フライド・エッグ(Flied Egg)」は、「ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン」「グッバイ・フライド・エッグ」とアルバムを2枚リリースするのですが、1972年、「フライド・エッグ」は解散しています。
「ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン」
「グッバイ・フライド・エッグ」
成毛滋は20代後半以降はスタジオミュージシャン、CM音楽の制作を行っていた
その後、成毛滋さんは、1970年代半ば以降は、スタジオミュージシャンとして活動するほか、CM音楽の制作なども手がけ、多い時期には年間1000曲以上の作曲、編曲をこなしていたそうですが、
そのかたわら、1982年から1991年までは、文化放送の深夜ラジオ番組「パープルエクスプレス」でギター講座のコーナーを担当し、
グレコから”成毛滋モデル”のギターが発売されると、購入者向けに「成毛滋のロックギター・メソッド」というカセットテープも配布するなど、ギターの教育活動にも力を入れたそうです。
また、2000年代には、「ザ・フィンガーズ」時代のドラムス・朝吹誠さんや「ゴールデン・カップス」のマモル・マヌーさんと、赤坂にある「エルカミーノ」というライブハウスで「ザ・ベンチャーズ」や「ザ・シャドウズ」のナンバーを演奏するなど、
TIC(東京インストゥルメンタル・サークル)の同窓会兼演奏会を、毎年、主催し、精力的に音楽活動を続けたそうです。
(時々、来店していた「ザ・ベンチャーズ」のノーキー・エドワーズさんが飛び入りで共演するほか、「ザ・フィンガーズ」時代のベース・斎藤茂一も参加したそうです)
成毛滋の死因は?
しかし、そんな成毛滋さんも、2007年3月29日、大腸ガンにより、60歳で他界されています。
成毛滋のアルバム
それでは、最後に、成毛滋さんのアルバムをご紹介しましょう。
- 1968年「サウンド・オブ・ザ・フィンガーズ」(ザ・フィンガーズ)
- 1971年「大烏が地球にやってきた日」(ストロベリー・パス)
- 1972年「London Notes」(成毛滋名義ソロ作品)
- 1972年「Dr. Siegel’s Fried Egg Shooting Machine」(フライド・エッグ)
- 1972年「Good Bye Flied Egg」(フライド・エッグ)
と、リリースしています。
ちなみに、「ザ・フィンガーズ」時代の唯一のオリジナル・アルバム「サウンド・オブ・ザ・フィンガーズ」は、全曲洋楽カヴァーで構成されているのですが、
当時のGS(グループ・サウンズ)サウンドに加え、成毛滋さんのギターも解禁されており、日本のロック黎明期を象徴する一枚となっています。
(2005年に、デジタル・リマスタリングされ、シングル曲などを収録して再発売されています)
「成毛滋の家系図は?妻は?子供は?祖父はブリヂストン創業者・石橋正二郎!」に続く
1960年代後半から1970年代にかけて、日本のロックシーンで活躍した、成毛滋(なるも しげる)さんですが、そんな成毛滋さんの親族は凄い人物が名を連ねています。 今回は、成毛滋さんの、家系図、親族、妻、子供についてご紹介 …