1976年に「ビリー・バンバン」が解散した後は、得意だった話術を活かして、司会などタレント業に進出すると、1984年に「ビリー・バンバン」が再結成した後は、順調に音楽活動を続けていた、管原孝(すがわら たかし)さんですが、
2014年に脳出血で倒れると、一命を取り留めるも、後遺症で左半身が麻痺状態となってしまい、懸命なリハビリを経て、2015年、車椅子ながら復帰を果たしていました。
今回は、菅原孝さんが2014年に脳出血で倒れてからリハビリに励み、他界されるまでの経緯を、生前の菅原孝さん本人の証言を交えながらご紹介します。

「【画像】菅原孝(ビリーバンバン)の若い頃から死去までのシングルほか経歴は?」からの続き
菅原孝は母親の介護に行った実家のトイレで倒れ、母親が菅原進に知らせたことで救急搬送されていた
菅原孝さんは、94歳となるお母さんを5年に渡り介護していたそうで、2014年7月10日、その日も、地方での仕事を終えると、すぐに最終の新幹線に滑り込み、お母さんの待つ実家へと急いだそうで、
(それは、菅原孝さんにとって当たり前のありふれた日常の一コマだったそうです)
実家に到着すると、お母さんの夜食を用意し、その後、身の回りのことを済ませたそうですが・・・
夜中に、トレイに入った瞬間、まるで底が抜けたように体がすとんと落ちていき、そのまま便座から前へ崩れ落ちたそうで、必死で立ち上がろうとするも、手足に力が入らず、グニャグニャとなり、一歩も動くことができなかったといいます。
すると、異変に気づいたお母さんが、
トイレで孝が死んだみたいに出てこないの
と、菅原孝さんの弟・菅原進さんに電話したそうで、
菅原進さんがすぐに救急車の手配をし、救急搬送されると、病院では、高血圧が原因の脳出血と診断され、血流を改善する薬を点滴され、一命を取り留めたのだそうです。
ちなみに、弟の菅原進さんは、その時のことを、
(お母さんから電話があり)それで、俺が救急車を呼んだわけ。おふくろは軽い認知症があったのに、よく気づいたよ。ほんと、兄貴はついてたと思う
と、語っています。
管原孝は脳出血の後遺症で左半身に麻痺が残ることを医師に告げられていた
しかし、ホッとしたのも束の間、菅原孝さんは、医師から、左半身に麻痺(まひ)が残ると宣告され、呆然としたといいます。
(右側の視床下部から出血していたそうで、同じ病気で入院してる8人の中で悪い方から2番目だと言われたそうです)
というのも、菅原孝さんは、ミュージシャンという仕事柄、健康には人一倍気を使い、ジョギング、腹筋、腕立て伏せなどのトレーニングを毎日1時間半もこなし、食事面でも、塩分を抜くなど、徹底的に自己管理をしていたからなのですが、
なぜ俺が?
との思いがぬぐえず、病気を受け止めることができなかったのだそうです。
(倒れたのは、何の前触れもなく、突然のことだったそうです)
管原孝がリハビリ途中でめげるも再びリハビリに取り組むことができた理由とは?
それでも、入院から42日目、車椅子でリハビリ施設へと転院すると、当初は懸命にリハビリに励んだそうですが、
最初はどうにか治るんじゃないかと思ったけど、リハビリが始まって、どんどん実感がわくわけ。ああ、本当に動かない。俺、ダメなんだって。悔しくって、落ち込んだよ。
と、できない自分へのイライラが募り、やがては、前向きな気持になることができなくなったといいます。
(もともと、菅原孝さんは、人一倍責任感が強く、仕事にもお母さんの介護にも一切、手を抜かない、自分に厳しい完璧主義な性格だったそうです)
そんな中、
もう今までの身体と違う。同じようにやろうとしたら、できない自分にイライラするだけだ。この病気になったのだって、そんな生き方がストレスになったからかもしれない。だったら、もう自分を縛るような生き方はやめようって。
と、その生き方自体が大きなストレスになっていたのではないかと考え、これまでの自分の生き方を見直す決意を固めると、
それからだよ。リハビリに前向きになれたのは。だんだんと気持ちが変わっていったんだ。なるようになるさ、って
と、ありままの現状を受け入れたことで、リハビリに前向きに取り組めるようになったそうで、
入院から3ヶ月ほどして退院し、自宅に戻ると、週2回、専門のリハビリ師(理学療法士)の訪問を受け、
(当初は記憶力も弱り、物の名前が思い出せないことが多かったそうですが、地道に克服していったそうです)
奥さんの手を借りながらも、できることは自分でやるように心がけるようになったのだそうです。
(菅原孝さんには5人の子供がいるのですが、長男が菅原孝さんよりも数ヶ月前に脳出血を発症するほか、長女も統合失調症と乳ガンを患い、奥さんによる介護が必要となっていたそうです)
ちなみに、菅原孝さんは、毎日のリバビリについて、
今日(取材の当日)も杖(つえ)を使って、廊下を10往復だよ。リハビリ師さんに、“あと1回できますか?”なんて言われると、疲れてても、“やります!”って答えちゃう。マゾだから(笑)。
もちろん、ダメな日もあるけど、いい意味で、“いい加減”にやってると、嫌にならずに続けられる。それで、今までできなかったことが、ある日ふっとできたりすると、うれしいんだ
と、語っています。
(ただ、お腹をこわし、トイレに間に合わず、奥さんに片付けてもらった時には、涙が出るほど情けなかったといいます)
管原孝は70歳の時にラジオ番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」に車椅子姿で仕事復帰していた
こうして、徐々に回復していった菅原孝さんは、発症から11ヶ月後の2015年5月には、ラジオ番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」に車椅子で仕事復帰を果たすと、
同年6月には、「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」の公開収録に参加し、約1年ぶりにステージ復帰も果たしています。
管原孝は72歳の時に「3年越しの45周年」のステージにも出演していた
そして、2017年3月に開催された「3年越しの45周年」では、全23曲、3時間に渡るコンサートを無事終えているのですが、
最後の曲を歌い終えた際、弟・菅原進さんの手を借り、車椅子から立ち上がると、客席から割れんばかりの拍手が鳴り響いたそうで、
菅原孝さんは、
コンサートが終わって、多くのファンが“元気をもらった”と言ってくれて。内心、元気は俺のもんだ。あげないぞ!って思うけど(笑)、僕らは、新しい役割を与えられたと実感してる。
人生って、どんな状態になっても、そこに必ず楽しみがあることを伝えるっていう
と、語っています。
管原孝の死因は?
そんな菅原孝さんは、その後も、車椅子に乗り、音楽活動を続けていたのですが・・・
2024年末から体調を崩して入院すると、2025年9月11日午後4時34分、肺炎により、東京都内の病院で、81歳で他界されたのでした。
ちなみに、弟の菅原進さんは、所属事務所を通して、
兄の孝と一緒に1969年のデビューから56年間、共に歩んでまいりました。誠実で優しく、思いやりがあり、真面目な兄でした。日が経つにつれて、兄の歩んできた人生を深く深く感じています。
ファン・関係者の皆様には、今までビリー・バンバンを応援して頂き、心より御礼申し上げます。本当に偉大な兄でした。兄貴、ありがとう
と、お兄さんへの思いをコメントしています。
(葬儀は遺族の希望により、近親者のみで執り行われたそうです)
「菅原孝の妻は?結婚後の関係は?子供は息子2人と娘3人!孫は6人!」に続く
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弟・菅原進さんとの兄弟デュオ「ビリー・バンバン」として、深みのある低音と柔らかなハーモニーで、昭和、平成、令和と長年に渡り、多くの人々の心に寄り添う名曲を歌い続けてきた、菅原孝(すがわら たかし)さんですが、プライベート …







