1969年、21歳の時、「ビリー・バンバン」として、1stシングル「白いブランコ」でメジャーデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒットとなり、1972年、24歳の時には、「さよならをするために」が80万枚を売り上げる大ヒットとなった、菅原進(すがわら すすむ)さん。

今回は、菅原進さんの若い頃(「ビリー・バンバン」でデビュー以降)から現在までの経歴を代表曲を交えながら時系列でご紹介し、最後にシングル一覧もご紹介します。

菅原進

「菅原進の生い立ちは?高校で浜口庫之助の門下生!大学でビリーバンバン結成!」からの続き

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菅原進は21歳の時に「ビリー・バンバン」としてデビュー曲「白いブランコ」が20万枚を売り上げる大ヒット

アマチュア時代に作曲した「白いブランコ」が人気を博し、兄・菅原孝さんとの兄弟デュオとしてデビューの話が持ち上がった菅原進さんは、

1968年5月、20歳の時、当時、兄の菅原孝さんとせんだみつおさんの3人編成だった「ビリー・バンバン」を、菅原孝さんとの兄弟デュオとして再編成し、

1969年1月15日、21歳の時、ファーストシングル「白いブランコ」でメジャーデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒットを記録しています。

「白いブランコ」
「白いブランコ」

ちなみに、当初、菅原進さんの恩師・浜口庫之助さんが作詞・作曲した「星空のハプニング」がA面で、「白いブランコ」はB面の予定だったそうですが、

ニッポン放送の井村文彦ディレクターのアドバイスにより、発表直前にA面とB面が入れ替えられ、「白いブランコ」がデビュー曲となったのだそうです。

菅原進は夜行列車移動でほぼ365日休みなくステージに立ち続けていた

そんな菅原進さんは、デビューして数年間は、雨で中止になる日を除いて、365日休みなくステージに立ち続けるという凄まじいスケジュールだったそうで、

九州でコンサートを終えた翌日、北海道で公演が入っていることも珍しくなかったといいます。

(しかも、飛行機ではなく、夜行列車に揺られて全国を移動していたそうです)

また、学園祭のシーズンは、1日に3つの会場を掛け持ちするのは当たり前だったといいます。

というのも、菅原進さんは、まだ学生で、マネージャーもアマチュア時代からの気心の知れた仲間だったからだそうですが、若さと体力があったことから、忙しくても楽しかったのだそうです。

菅原進は21歳~23歳の時に「恋の花うらない」「ミドリーヌ」「悲しみの中に」「白い風とすずらん」「ふたり」「ドアを開けたら」「ヴァンタンの子守唄」「みにくいあひるの子」をリリース

ただ、レコードの売上はというと、その後、

  • 1969年6月1日「恋の花うらない」
  • 1969年10月1日「ミドリーヌ」
  • 1970年2月1日「悲しみの中に」
  • 1970年6月1日「白い風とすずらん」
  • 1970年8月20日「ふたり」
    「ふたり」
    「ふたり」
  • 1970年12月1日「ドアを開けたら」
  • 1971年4月1日「ヴァンタンの子守唄」
  • 1971年8月10日「みにくいあひるの子」

と、立て続けにシングルをリリースするも、パッとしなかったといいます。

菅原進は24歳の時、「ビリー・バンバン」として「さよならをするために」が80万枚を売り上げる大ヒット

そんな中、1972年2月10日(菅原進さん24歳)、「さよならをするために」をリリースすると、テレビドラマ「3丁目4番地」の主題歌に起用されたこともあって、80万枚を売り上げる大ヒットとなり、

「ビリー・バンバン」は、この年の「第23回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしています。

「さよならをするために」
「さよならをするために」

菅原進は当初「さよならをするために」を歌うことを拒否していた

ちなみに、この「さよならをするために」は、作詞が石坂浩二さん、作曲は坂田晃一さんなのですが、

それまで、フォークミュージシャンとして、「自分の作った曲で自分の世界を表現したい」という強いプライドを持っていた菅原進さんは、レコーディングの際、

自分の曲じゃないから歌わない

と、言って、スタジオを飛び出し、帰ってしまっていたといいます。

(兄の菅原孝さんが、菅原進さんに、「進、歌えよ」と優しく諭(さと)したそうですが、尖(とが)っていた菅原進さんは、石坂浩二さん作詞、坂田晃一さん作曲という素晴らしい楽曲であることは理解しつつも、自作曲へのこだわりという「我」が勝ってしまい、頑(かたく)なに拒否して帰宅してしまったのだそうです)

ただ、数日後、レコード会社から電話があり、

お願いします

と、言われると、

その時には、菅原進さんも冷静になり、

わかりました。生意気なこと言ってすみません

と、言って、レコーディングに臨んだのだそうです。

とはいえ、実は、菅原進さんは、少しふてくされて歌唱していたそうですが、その投げやりな、ストレートに声を出すスタイルが良かったのか、見事に大ヒットとなったのだそうです(笑)

菅原進は24歳~28歳の時に「れんげ草」「子供たちをよろしく」「愛すべき僕たち」「目覚めた時には晴れていた」「思い出を作ろう」 「やさしい雨」「風のように砂のように」「青春の道程」をリリース

以降、菅原進さんは、「ビリー・バンバン」として、

  • 1972年8月10日 「れんげ草」
    「れんげ草」
    「れんげ草」
  • 1973年2月10日 「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
  • 1973年8月10日 「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
  • 1974年3月1日 「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
  • 1974年9月1日 「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
  • 1975年1月1日 「やさしい雨」
    「やさしい雨」
    「やさしい雨」
  • 1975年11月1日 「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
  • 1976年6月1日 「青春の道程」

と、シングルをリリースしていたのですが・・・

菅原進が29歳の時に「ビリー・バンバン」を解散した理由とは?

「ビリー・バンバン」は、1976年に解散しています。

実は、兄弟の仲が悪くなったことが解散理由だったそうで、もともと、音楽一筋の菅原進さんに対し、菅原孝さんは学問が好きだったほか、音楽の趣味や考え方も違っていたそうで、

毎日一緒にいると、ちょっとした違和感が徐々に膨らんでいき、会うとケンカばかりするようになったことから、どちらともなく、「解散しよう」となったそうで、

菅原進さんは、

デビュー曲の『白いブランコ』も20万枚以上のロングヒットになったし、テレビドラマ『3丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌『さよならをするために』も80万の大ヒットになった。

周りから見れば順風満帆なんだろうけど、この頃、いつも迷ってたんです。納得する曲が作れない。周囲の求める音楽と、自分のやりたい音楽も乖離(かいり)していた。一度リセットしないと、どうしようもないところまで来ていたんです

と、語っています。

(とはいえ、兄の菅原孝さんとは、険悪という程ではなく、「ビリー・バンバン」解散後も、家族ぐるみの付き合いは続いていたそうで、お互い、”音楽や仕事の話”だけ避けていたのだそうです)

菅原進は37歳の時に兄・菅原孝から「ビリー・バンバン」再結成を誘われるも断っていた

そして、「ビリー・バンバン」解散後、菅原進さんは、ソロとして活動を開始したそうですが・・・

休息を欲していたこともあり、1日中、お酒を飲んで過ごしていると、やがては、奥さんとの仲にも亀裂が入って離婚となり、さらには、喘息(ぜんそく)の発作が出たことで歌も歌えなくなり、どん底の日々を過ごしていたといいます。

そんな中、「ビリー・バンバン」解散から7~8年が経った頃、

兄の菅原孝さんに、

(ビリー・バンバンを)再結成しよう

と、言われたそうですが・・・

(1日だけのイベント出演だったそうです)

菅原進さんは、即答で断ったといいます。

菅原進は37歳の時に兄・菅原孝主導で「ビリー・バンバン」を再結成していた

ただ、兄の菅原孝さんは一人で話を進めていたそうで、菅原進さんも断れなくなり、迷いながらも、リハーサルに参加し、「白いブランコ」を歌ったところ、

8年ぶりにもかかわらず、兄・菅原孝さんとのハーモニーは、何の苦労もなく、昔と同じようにぴったりと合ったそうで、

これに感動した菅原進さんは、いろいろあったものの、自分の居場所はここだと実感し、1984年、37歳の時に「ビリー・バンバン」は再結成したのだそうです。

実は、兄・菅原孝さんは、お母さんから、

進が喘息で苦しんでいるから、孝、見に行って助けてあげて

と、言われ、

しばしば、菅原進さんの様子を見に来ていたそうですが、

常々、お母さんから、

ビリー・バンバンの活動をしないのか

とも、言われていたそうで、

そんな中、菅原孝さんのもとへ、

1日限定でいいから、ビリー・バンバンのコンサートをやってほしい

との依頼が届いたそうで、

菅原孝さんは、

もう話を進めてしまえば、進も断れないだろう

と、再結成に向けて動き出していたのだそうです。

菅原進は40歳の時に「ビリー・バンバン」として麦焼酎「いいちこ」のCM曲で人気を博していた

そんな「ビリー・バンバン」は、1987年、楽曲が麦焼酎「いいちこ」のCM曲に起用されると、「遅すぎた季節」「今は、このまま」「また君に恋してる」など、35年以上に渡り、「いいちこ」のCMソングを担当しているのですが、

2007年11月には、「また君に恋してる」が坂本冬美さんのカバーにより大ヒットしています。

ちなみに、菅原進さんは、2019年のインタビューで、

(ソロ曲も起用されているが)でも僕はあくまでビリー・バンバン。どうせやるなら、ふたりでやりたかった。そう申し出たところ、ディレクターの河北秀也さんが快諾してくれて、それであのシリーズになったんです。

今CMで流れている『さよなら涙』まで、僕のソロ曲も入れると全部で13曲になりました

と、語っています。

菅原進は66歳の時に大腸ガンを患い手術していた

しかし、2014年5月には、菅原進さん(66歳)が、大腸ガンを患い、手術。

そして、それから間もない2014年7月には、今度は、兄・菅原孝さんが脳出血で緊急入院したそうで、

菅原進さんは、「ビリー・バンバン」として出演予定だった生放送番組「THE MUSIC DAY」に、急遽ソロで出演し、自身の術後の体調も万全ではない中、二人で歌うはずだった「白いブランコ」を一人で歌い上げたといいます。

(このことは、当時は公にされず、2015年5月、菅原孝さんがラジオ番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」へのゲスト出演で仕事復帰を果たした際、菅原進さんが、「実は兄が倒れた当時、自分も大腸ガンの手術直後だった」と明かしています)

菅原進は67歳の時に兄・菅原孝と「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」の公開収録に参加していた

その後、菅原進さんは、2015年6月(菅原進さん67歳)には、車椅子の兄・菅原孝さんと共に、BS朝日の特番「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」の公開収録でステージに立つと、

ビリー・バンバン
「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」より。菅原進さん(左)と菅原孝さん(右)。

2017年7月にも、二人揃ってテレビ番組「THE MUSIC DAY」に出演しています。

菅原進は74歳の時に「うっせぇわ」を歌唱した動画をYouTubeにアップしていた

そんな菅原進さんは、2019年には、「ビリー・バンバン」のデビュー50周年を迎え、全国ツアーを行うと、

2020年1月には、ゲーム「アイドルマスター」の楽曲「薄紅」を歌唱した動画、2021年(菅原進さん74歳)には、Adoさんの「うっせぇわ」を歌唱した動画を、YouTubeやニコニコ動画に投稿するなど、若い世代の音楽にも積極的に挑戦し、新境地を開拓しています。

「うっせぇわ」を歌う菅原進(73歳)さん。

菅原進の現在は?

しかし、2025年9月11日には、兄・菅原孝さんが肺炎により、81歳で他界。

ちなみに、菅原進さんは、同年11月のインタビューで、お兄さんの代わりに誰かと組むということは考えていないものの、「ビリー・バンバン」の名前は残したいことから、「ビリー・バンバンの菅原進」として活動していくことを語っています。

また、菅原進さんは、兄・菅原孝さんへの思いを、

亡くなったときはショックだった。悲しかった。時間がたつにつれてもっと何か悲しくなってくるね。1969年のデビューから56年間になりますか・・・

長い間一緒にやってたから、一つ一つ思い出がよみがえってきてね。ああいうことがあったな、こういうことがあったなと。時間がたつにつれて、悲しみが増しますね。

と、語っていたのですが・・・

そんな菅原進さんも、2025年11月4日、自宅のリビングで転倒し、救急搬送されると、左足の大腿骨頸部骨折、さらに、この時の転倒の原因が、軽度の脳梗塞によるものだったことが、11月13日、所属事務所により発表されています。

ただ、菅原進さんは、意識もはっきりしており、会話もできる状態とのことで、療養を経て、足の治療と並行し、リハビリに励むことが発表されています。

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菅原進(ビリー・バンバン)のシングル一覧

それでは、最後に、菅原進さんの「ビリー・バンバン」としてのシングルをご紹介します。

  • 1969年「白いブランコ」
    「白いブランコ」
    「白いブランコ」
  • 1969年「恋の花うらない」
  • 1969年「ミドリーヌ」
  • 1970年「悲しみの中に」
  • 1970年「白い風とすずらん」
  • 1970年「ふたり」
    「ふたり」
    「ふたり」
  • 1970年「ドアを開けたら」
  • 1971年「ヴァンタンの子守唄」
  • 1971年「みにくいあひるの子」
  • 1972年「さよならをするために」
    「さよならをするために」
    「さよならをするために」
  • 1972年「れんげ草」
    「れんげ草」
    「れんげ草」
  • 1973年「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
  • 1973年「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
  • 1974年「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
  • 1974年「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
  • 1975年「やさしい雨」
    「やさしい雨」
    「やさしい雨」
  • 1975年「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
  • 1976年「青春の道程」
  • 1983年「あなたのためなら」
    「あなたのためなら」
    「あなたのためなら」
  • 1984年「誓います」
  • 1985年「横浜に鐘が鳴る」
  • 1993年「さよならをするために(ニュー・バージョン)」
  • 1994年「季節は回転木馬のように」
  • 1994年「遅すぎた季節」
    「遅すぎた季節」
    「遅すぎた季節」
  • 1998年「TUESDAY’S LOVE」
  • 2000年「よかったね 笑えて」
  • 2002年「今は、このまま」
  • 2004年「今は、このまま」
  • 2005年「君の詩」
    「君の詩」
    「君の詩」
  • 2007年「また君に恋してる」
  • 2009年「また君に恋してる」
  • 2011年「ずっとあなたが好きでした」
  • 2013年「雪が降る前に」
  • 2014年「いつか来た海」
  • 2016年「さよなら涙」
    「さよなら涙」
    「さよなら涙」
  • 2022年「ココロありがとう」

を、リリースしています。

「菅原進の病気は?大腸ガンで手術!現在は大腿骨骨折と脳梗塞?復帰は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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