1969年、「ビリー・バンバン」として、「白いブランコ」でレコードデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒットとなり、1972年には、「さよならをするために」が80万枚を売り上げる大ヒットとなった、菅原孝(すがわら たかし)さん。

今回は、菅原孝さんの若い頃(「ビリー・バンバン」でデビュー以降)から死去までの経歴を代表曲などを交えて時系列でご紹介します。また、最後にシングル一覧もご紹介します。

菅原孝

「菅原孝の生い立ちは?大学で弟・菅原進のビリーバンバンに加入していた!」からの続き

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菅原孝は24歳の時に「ビリー・バンバン」としてデビュー曲「白いブランコ」が20万枚を売り上げる大ヒット

菅原孝さんは、1969年1月15日、24歳の時、「ビリー・バンバン」として、「白いブランコ」でレコードデビューすると、たちまち20万枚を売り上げる大ヒットを記録し、一躍、フォークシンガーの代表的存在として人気を博します。

「白いブランコ」
「白いブランコ」

ただ、キングレコードから発売された「白いブランコ」は、弟の菅原進さんが作曲を手掛けたものに大幅なアレンジが施され、2番の歌詞もカットされるなど、兄弟にとっては納得のいかない形でのリリースだったといいます。

(当時は、作詞家、作曲家の地位が非常に高く、新人歌手が口を挟める存在ではなかったそうです)

そこで、1972年に日本コロムビア系の「芸音レーベル」へ移籍した際には、本来の姿である2番を含む完全版を、自分たちの意図したアレンジで改めてレコーディングし、シングルを再リリースしています。

菅原孝は24歳~27歳の時に「恋の花うらない」「ミドリーヌ」「悲しみの中に」「白い風とすずらん」「ふたり」「ドアを開けたら」「ヴァンタンの子守唄」「みにくいあひるの子」をリリース

さておき、「白いブランコ」以降も、菅原孝さんは、「ビリー・バンバン」として、

  • 1969年6月1日「恋の花うらない」
  • 1969年10月1日「ミドリーヌ」
  • 1970年2月1日「悲しみの中に」
  • 1970年6月1日「白い風とすずらん」
  • 1970年8月20日「ふたり」
    「ふたり」
    「ふたり」
  • 1970年12月1日「ドアを開けたら」
  • 1971年4月1日「ヴァンタンの子守唄」
  • 1971年8月10日「みにくいあひるの子」

と、立て続けにシングルをリリースしたそうですが、売り上げはパッとしなかったといいます。

菅原孝は27歳の時に「ビリー・バンバン」として「さよならをするために」が80万枚を売り上げる大ヒット

それでも、1972年2月10日、27歳の時、「さよならをするために」をリリースすると、テレビドラマ「3丁目4番地」の主題歌に起用されたこともあり、80万枚を売り上げる大ヒットを記録。

このヒットにより、「ビリー・バンバン」は、この年の「第23回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たしたのでした。

「さよならをするために」
「さよならをするために」

ただ、この「さよならをするために」は、石坂浩二さん作詞、坂田晃一さん作曲で、

それまで「ビリー・バンバン」は、弟の菅原進さんが作った楽曲を歌っていたことから、レコーディングの際、菅原進さんは、自分の曲じゃないことを理由に歌うことを拒否し、菅原孝さんが諭すも、頑なに拒否し、スタジオを飛び出していたそうで、

この頃辺りから、菅原進さんと菅原進さんの考え方に違いが生じ始めていたといいます。

(菅原孝さんは、与えられた曲を歌えばいいという考えだったそうですが、菅原進さんは、フォークミュージシャンとして「自分の作った曲で自分の世界を表現したい」という強いこだわりを持っていたのだそうです)

菅原孝は28歳~31歳の時に「れんげ草」「子供たちをよろしく」「愛すべき僕たち」「目覚めた時には晴れていた」「思い出を作ろう」 「やさしい雨」「風のように砂のように」青春の道程」をリリース

それでも、菅原孝さんは、「ビリー・バンバン」として、その後も、

  • 1972年8月10日 「れんげ草」
    「れんげ草」
    「れんげ草」
  • 1973年2月10日 「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
  • 1973年8月10日 「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
  • 1974年3月1日 「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
  • 1974年9月1日 「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
  • 1975年1月1日 「やさしい雨」
    「やさしい雨」
    「やさしい雨」
  • 1975年11月1日 「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
  • 1976年6月1日 「青春の道程」

と、シングルをリリースしていたのですが・・・

菅原孝が32歳の時に「ビリー・バンバン」は解散

もともと音楽の趣味や考え方が違っていた菅原孝さんと菅原進さんは、毎日一緒にいることで、些細に感じていた違和感が徐々に膨らんでいき、やがては、会うとケンカばかりするようになっていったそうで、

1976年には、ついに、「ビリー・バンバン」は解散となっています。

菅原孝は「ビリー・バンバン」解散後は司会などタレント業に進出していた

その後、菅原孝さんは、もともと「ビリー・バンバン」のメンバーだったせんだみつおさんと同じ事務所に所属すると、

得意だった語りを活かして司会などタレント業に進出しています。

菅原孝が40歳の時に「ビリー・バンバン」は再結成

そんな中、「ビリー・バンバン」が解散して7~8年経った頃、

菅原孝さんは、お母さんから、

進が喘息(ぜんそく)で苦しんでいるから、孝、見に行って助けてあげて

と、言われたそうですが、

(弟の菅原進さんとは、あくまで、音楽や仕事の話で合わなかっただけで、兄弟の仲自体はそれほど険悪だったわけではなく、「ビリー・バンバン」解散後も、家族ぐるみの付き合いは続いていたそうです)

ちょうど、同じ頃、

1日限定でいいから、「ビリー・バンバン」のコンサートをやってほしい

との依頼も舞い込んできたそうで、

かねてより、お母さんから、「ビリー・バンバンの活動をしないのか」とずっと言われ続けていたこともあり、

(お母さんは、「ビリー・バンバン」の一番のファンだったそうです)

菅原進さんの様子を見に行った際、菅原進さんに、

(ビリー・バンバンを)再結成しよう

と、持ちかけたそうですが、

菅原進さんには、即答で断られてしまったといいます。

ただ、菅原孝さんが、

もう話を進めてしまえば、進も断れないだろう

と、一人で話を進めると、

(思った通り)菅原進さんは、断れなくなってリハーサルに参加し、「白いブランコ」を2人で歌うと、8年ぶりだったにもかかわらず、昔と同様、ぴったり息が合い、何の苦労もなく、歌いきることができたそうで、

菅原孝さんは、

ああ、自分たちは「ビリー・バンバン」だな

と、実感したといいます。

また、菅原進さんも、

自分の居場所はここだ

と、思ったそうで、

1984年(菅原孝さん40歳)、「ビリーバンバン」は再結成したのでした。

菅原孝は43歳の時に「ビリー・バンバン」として麦焼酎「いいちこ」のCMソングを担当するようになっていた

その後、菅原孝さんと菅原進さんは、1986年、麦焼酎「いいちこ」のポスター展が銀座で開催された際、その展覧会にゲストとして呼ばれ、「さよならをするために」を歌ったそうですが、

「いいちこ」のアートディレクターの河北秀也さんに、

2人の歌声と「いいちこ」の透明感が共通しているので、ぜひ「いいちこ」のCM曲を歌ってほしい

と、依頼されたそうで、

このことがきっかけとなり、1987年より、「いいちこ」のCM曲を手掛けるようになると、以降、35年以上に渡り、「いいちこ」のCMソングを担当し続けており、

2人の透き通るようなスキャットと柔らかなハーモニーは、「いいちこ」のCMの美しい映像美に欠かせない要素となっています。

菅原孝は40歳過ぎから知人の連帯保証人として借金返済に追われていた

こうして、菅原孝さんは、「ビリー・バンバン」再結成後、仕事は順調だったそうですが、

プライベートでは、知人の連帯保証人になって多額の借金を背負うほか、娘さんが統合失調症を患うなど(2026年現在も闘病中)、災難が続いたそうで、

某音楽ライターは、

孝さんは当時、仕事は順調だったものの、知人の連帯保証人となり多額の借金を被ることになったんです。毎月家族のためでもなく、他人の尻ぬぐいのために大金を返済して、大変な思いをしたでしょうね・・・

また娘さんが統合失調症を患うこととなり、今より世間の理解が進んでいないなか、差別や偏見と戦うことに苦労したといいます

と、語っています。

菅原孝は69歳の時に脳出血で緊急入院していた

そして、そんな中、菅原孝さんは、2014年7月10日、69歳の時、脳出血により、都内の病院に緊急入院したことが、7月11日、所属事務所により発表されました。

所属事務所によると、菅原孝さんの病状は落ち着いていて、意識もはっきりしているものの、この日(7月11日)、一般病棟に移り、念のため検査を兼ねて引き続き入院するとのことでした。

菅原孝は70歳の時にラジオ番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」のゲスト出演で仕事復帰していた

ただ、実際には、菅原孝さんは左半身に麻痺(まひ)が残り、退院後も、懸命なリハビリを続けていたそうで、

2015年5月25日放送のラジオ番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」に、車椅子姿で弟の菅原進さんと共に生出演し、仕事復帰を果たしています。

(菅原進さんも大腸ガンを患っており、その手術が終わったばかりの頃、菅原孝さんが脳出血で緊急入院したのでした)

そして、同年(2015年)6月には、車椅子姿ながら、菅原進さんと一緒に、BS朝日の特番「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」の公開収録でステージに立つと、

「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」
「集え!富士山麓 歌え!青春フォーク」より。弟の菅原進さん(左)と菅原孝さん(右)。

2017年3月25日には、車椅子姿で、「3年越しの45周年、兄と弟の復活祭」に出演しています。

(2014年で45周年なのですが、弟の菅原進さんも大腸ガンを患ったことから、2017年まで延期となっていました)

菅原孝は81歳で死去

そんな菅原孝さんは、その後も、車椅子で音楽活動を続け、2022年1月、77歳の時には、「映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)2021」の挿入歌に、「ビリー・バンバン」の楽曲「ココロありがとう」が起用され、

(ドラえもんとのび太を兄弟に見立てて書き下ろしたそうです)

心より嬉しいです。孫に自慢できる(笑)

と、喜びのコメントを寄せていたのですが・・・

「ココロありがとう」
「ココロありがとう」

2025年9月11日午後4時34分、肺炎により、東京都内の病院で、81歳で他界されたのでした。

菅原孝(ビリー・バンバン)のシングル

それでは、最後に、菅原孝さんの「ビリー・バンバン」としてのシングルをご紹介します。

  • 1969年「白いブランコ」
    「白いブランコ」
    「白いブランコ」
  • 1969年「恋の花うらない」
  • 1969年「ミドリーヌ」
  • 1970年「悲しみの中に」
  • 1970年「白い風とすずらん」
  • 1970年「ふたり」
    「ふたり」
    「ふたり」
  • 1970年「ドアを開けたら」
  • 1971年「ヴァンタンの子守唄」
  • 1971年「みにくいあひるの子」
  • 1972年「さよならをするために」
    「さよならをするために」
    「さよならをするために」
  • 1972年「れんげ草」
    「れんげ草」
    「れんげ草」
  • 1973年「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
    「子供たちをよろしく」
  • 1973年「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
    「愛すべき僕たち」
  • 1974年「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
    「目覚めた時には晴れていた」
  • 1974年「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
    「思い出を作ろう」
  • 1975年「やさしい雨」
    「やさしい雨」
    「やさしい雨」
  • 1975年「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
    「風のように砂のように」
  • 1976年「青春の道程」
  • 1983年「あなたのためなら」
    「あなたのためなら」
    「あなたのためなら」
  • 1984年「誓います」
  • 1985年「横浜に鐘が鳴る」
  • 1993年「さよならをするために(ニュー・バージョン)」
  • 1994年「季節は回転木馬のように」
  • 1994年「遅すぎた季節」
    「遅すぎた季節」
    「遅すぎた季節」
  • 1998年「TUESDAY’S LOVE」
  • 2000年「よかったね 笑えて」
  • 2002年「今は、このまま」
  • 2004年「今は、このまま」
  • 2005年「君の詩」
    「君の詩」
    「君の詩」
  • 2007年「また君に恋してる」
  • 2009年「また君に恋してる」
  • 2011年「ずっとあなたが好きでした」
  • 2013年「雪が降る前に」
  • 2014年「いつか来た海」
  • 2016年「さよなら涙」
    「さよなら涙」
    「さよなら涙」
  • 2022年「ココロありがとう」

を、リリースしています。

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菅原孝の著書(ビリー・バンバンとして)

また、菅原孝さんは、弟の菅原進さんと共に、

と、著書も出版しています。

「菅原孝の死因は?病気(脳出血)の後遺症で左半身麻痺で音楽活動をしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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