1986年4月8日、アイドルとして人気絶頂だった岡田有希子さんが、所属事務所「サンミュージック」が入っていた7階建てのビルの屋上から飛び降り、そのまま帰らぬ人となっているのですが、

その際、岡田有希子さんの自宅に残されていた日記のようなノートに書かれていた失恋相手の名前が、峰岸徹(みねぎし とおる)さんだったとされたことから、峰岸徹さんは、長年バッシングを受けました。

今回は、今もなお多くの謎に包まれている峰岸徹さんと岡田有希子さんの本当の関係を、関係者の証言、峰岸徹さんの記者会見、岡田有希子さんの母親の手記などから、ご紹介します。

峰岸徹と岡田有希子

「峰岸徹の死因は?腰痛から末期の肺ガンが判明していた!お別れ会は?」からの続き

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峰岸徹と岡田有希子の出会いはテレビドラマ「禁じられたマリコ」での共演だった

峰岸徹さんと岡田有希子さんは、1985年、テレビドラマ「禁じられたマリコ」(1985年11月5日~1986年1月28日放送)での共演で知り合ったといいます。

ちなみに、この「禁じられたマリコ」は、岡田有希子さんの初主演ドラマで、幼い頃、無実の罪を着せられた父親を警察に射殺された少女・麻里子(岡田有希子さん)が、その凄惨な体験から超能力に目覚め、数々の悲劇に巻き込まれながらも懸命に生きて行く姿を描いており、

峰岸徹さんは、麻里子の父親の殺害に関わった黒木刑事役を演じているのですが、劇中、峰岸徹さんと岡田有希子さんが恋愛関係になるような描写はありません。

ただ、峰岸徹さんは、この時、42歳のベテラン俳優で、テレビドラマ初主演で緊張していた岡田有希子さん(18歳)に対し、演技について、いろいろとアドバイスをしていたといいます。

岡田有希子の自殺は峰岸徹にフラレたことが原因?

そんな中、翌年の1986年4月8日、岡田有希子さんは、所属事務所「サンミュージック」が入っていた7階建てのビルの屋上から飛び降り、そのまま帰らぬ人となっているのですが、

岡田有希子さんが日記のように使っていたノートに、峰岸徹さんに失恋し傷ついた旨が書かれてあったとされ、岡田有希子さんの自殺は、峰岸徹さんにフラレたことが原因と取り沙汰されました。

峰岸徹は岡田有希子の自殺当日の夜に記者会見を開き交際を否定していた

そこで、峰岸徹さんは、岡田有希子さんの自殺した当日の夜、緊急会見を開くと、

記者:岡田有希子さんが亡くなって今のお気持ちは?

峰岸:正直、ものすごくショックです。

記者:どんなお付き合いだったんですか?

峰岸:昨年からドラマで共演し、仕事でいろいろかわいがっていて、僕だけでなく、みんなに可愛がられていました。ドラマの中で、グループみたいにみんな仲が良かった。まあ、兄貴というか・・・。

記者:「峰岸さんにふられた」と遺書に名前があったことについては?

峰岸:そう言われても・・・。お昼を一緒に食べたり、帰りが同じ成城なので送って帰ったりしたぐらいで・・・。

記者:死の直前、電話があったと言われていますが。

峰岸:聞いてませんし、彼女のマンションに行ってません。

記者:最後に会ったのはいつごろ?

峰岸:最後に会ったのはドラマの打ち上げのときですから、1月半ばだと思います。

記者:その後、電話はよくかかってきたんですか?

峰岸:たまにかかってきました。ひと月かひと月半前、電話がありましたが、それが最後ですね。仕事のグチを聞いてあげたりしましたが・・・。

記者:電話以外では?例えば手紙とか。

峰岸:最近、湯沢での地方ロケのときの写真が入った手紙が郵送で送られてきましたね。「楽しいロケーションでした」と書いてありました。

記者:破局のようなものがあったのですか?

峰岸:彼女は明るいけれど、わりとナイーブで、フッと考え込むところがありました。僕は兄貴のつもりだったんだけど、ひょっとして彼女には妹としてだけなく、プラスアルファの感情があったかもしれない。自分で言うのはおこがましいですが、初恋っていうのかな。

記者:彼女の気持ちを受け入れようとは思わなかったのですか?

峰岸:年齢も違うし、そんな交際ではないです。あまり(好意を)示さないように気をつけていたぐらいで。僕のことが100%原因で自殺したのか、疑問だと思います。

記者:「好きだ」と告白されたんですか?

峰岸:具体的にはなかったけど抽象的には・・・。

記者:今、思うことは?

峰岸:責任は感じます。責めを負うわけですから。娘が大きくなったら愛することを理解してやらなければいけないな、と思います。

とのやり取りがあったのですが、

峰岸徹さんは、この会見以降、一切、取材に応じなかったことから、

(峰岸徹は)ロリコン

(岡田有希子を)妊娠させていた

など、心ない噂が飛び交いました。

峰岸徹
記者会見でマスコミの質問に答える峰岸徹さん。

峰岸徹と岡田有希子の本当の関係は?

実際、峰岸徹さんと岡田有希子さんは、どのような関係だったのでしょうか。時系列で追いかけてみましょう。

成城での交流(1985~1986年1月中旬)

峰岸徹さんは、岡田有希子さんと、ドラマ「禁じられたマリコ」で共演した際、撮影の合間に、演技の悩みなどを積極的に相談してくる岡田有希子さんに対し、アドバイスを送り、やがて仲間内を交えて一緒に食事をする間柄になったそうです。

この頃、岡田有希子さんは所属事務所「サンミュージック」の相澤秀禎社長の自宅(成城4丁目)に下宿しており、峰岸徹さんの自宅(成城6丁目)とは1キロも離れていないご近所同士でした。

また、頻繁に収録が行われた砧(きぬた)撮影所も成城のすぐそばに位置していたため、撮影が終わると、峰岸徹さんは自身の愛車であるベンツに岡田有希子さんを乗せ、下宿先まで送るようになったといいます。

すると、やがて2人は、2人きりで食事をするようになったようで、手紙や電話でのやり取りに加え、成城の峰岸徹さんの自宅周辺で夜な夜なデートをしている姿が、相次いで目撃されるようになり、

岡田有希子さんの友人によると、岡田有希子さんは、

毎日がとっても楽しい

と、話していたといいます。

ただ、峰岸徹さんの自宅には、前妻との間にできた8歳になる娘がいたほか、周囲には内緒にしていた半同棲状態の婚約者がいたことから、

(峰岸徹さんは1983年に離婚しており、その後、娘を引き取って育てていたそうです)

峰岸徹さんと岡田有希子さんの関係は男女の一線を越えることはなく、隙間時間を見つけて会う、プラトニックな関係にとどまっていたとされています。

ドラマの終了とともに疎遠になっていった(1986年1月中旬〜3月)

ただ、1986年1月中旬、ドラマ「禁じられたマリコ」の撮影が終了すると、峰岸徹さんが岡田有希子さんを下宿先まで車で送っていくことはなくなり、

さらに、峰岸徹さんは、4月末に、半同棲中の婚約者との入籍と身内だけでの結婚パーティーを予定していたことから、再婚に向けて身辺や異性関係を整理したかったようで、

岡田有希子さんからの電話や手紙に対し、徐々に反応が悪くなっていったといいます。

(それでも、峰岸徹さんの婚約者の存在を知らない岡田有希子さんは、その後も、峰岸徹さんとの接触を試み続けたといいます)

最後に会ったのはミラノ座での夜だった?(1986年3月21日)

そんな中、1986年3月21日の夜、新宿の映画館「ミラノ座」で、峰岸徹さんが出演した映画「スタア」の試写会を兼ねたオールナイトイベントが開催されているのですが、

岡田有希子さんがお忍びで来場していたそうで、当初、岡田有希子さんは一般席に地味な服装で座っていたそうですが、午前1時を過ぎた頃、出演者控え室にいた峰岸徹さんのもとを訪れ、写真が入っているとみられる封筒を直接手渡したといいます。

すると、峰岸徹さんは、岡田有希子さんの突然の訪問に対し、イラ立ちを隠せない様子で、イベント中もスタッフに八つ当たりするなど周囲にもその不穏な空気が伝わっていたといいます。

また、深夜3時頃にイベントが終了した時には、峰岸徹さんと岡田有希子さんの姿はすでに会場から消えていたそうですが、2人がその後、一緒にいたのかは不明です。

(これが、峰岸徹さんと岡田有希子さんが顔を合わせた最後だったとされています)

岡田有希子の引っ越しにより物理的にも距離が離れていた(1986年4月4日)

その後、岡田有希子さんは、高校卒業をきっかけに、4月4日、それまで下宿していた成城の相澤秀禎社長の自宅を出て、青山で1人暮らしを始めているのですが、

これにより峰岸徹さんと岡田有希子さんの距離は物理的にも遠くなっています。

岡田有希子は峰岸徹に婚約者がいると知り激しいショックを受けていた(1986年4月7日~4月8日早朝)

ただ、岡田有希子さんは、4月7日の夜、映画の試写会に出席した後、公衆電話から誰かに電話していたといいます。

(相手は峰岸徹さんだと言われています)

そして、帰宅後も、峰岸徹さんの自宅へ電話をかけたそうですが、その時、電話に出たのは、峰岸徹さんではなく、峰岸徹さんの婚約者で、

彼ならいまシャワーを浴びている

と、告げられて電話を切られたそうで、

この時、岡田有希子さんは、初めて、峰岸徹さんに婚約者がいることを知り、激しいショックを受け、友人の生田智子さんに、

峰岸徹さんの家に女性がいる

と、ひどく落ち込んで電話をかけたといいます。

また、岡田有希子さんは、現実を確かめずにはいられず、日付が変わった4月8日の早朝、タクシーで成城にある峰岸徹さんの自宅前へと向かったそうですが、そこで、婚約者の存在という現実を突きつけられたそうで、

岡田有希子さんは、泣き腫らした顔で再びタクシーに乗り、仕事もすべて投げ出して実家へ帰ろうとしたのか、東京駅へ向かったそうですが、最終的には青山の自宅マンションへと戻ったのだそうです。

岡田有希子の書き置きと自殺未遂(1986年4月8日午前)

すると、岡田有希子さんは、その後、便箋に、

あこがれていたのに急に冷たくされて悲しい

電話もかけてくれない

もう一度お会いしたかった

待っていたけど、あなたは来なかった

峰岸さんは会ってくれない。好きか嫌いかはっきりしない。思わせぶりで冷たい人。でも私は好きなの。捨てないで。捨てないで。

などと、峰岸徹さんへの溢れる思いを18行に渡って走り書きし、

(5時間以内に書いたと考えられています)

手首を切って、部屋にガスを充満させ、自殺未遂を図ったといいます。

しかし、異変に気づいた住民の通報により、岡田有希子さんの部屋にレスキュー隊が突入したそうで、岡田有希子さんは、病院に搬送されたのだそうです。

(レスキュー隊が突入した際、岡田有希子さんは押入れの中で激しく泣いていたといいます)

岡田有希子が飛び降りたのは自責の念からだった?(1986年4月8日午前)

すると、すぐに所属事務所「サンミュージック」の福田専務が病院に駆けつけたそうですが、

(福田専務によると、病室の奥で静かに泣いている岡田有希子さんの姿は、自分の起こした行動をひどく反省しているように見えたといいます)

幸いにも、岡田有希子さんは入院の必要はなく、福田専務とともにタクシーに乗ったそうで、タクシーの車内で、福田専務が、

実家、青山の自宅、四谷の事務所のどこへ行きたいか

と、尋ねると、

岡田有希子さんは、自ら四谷の事務所に行くことを希望したそうで、事務所に向かったそうです。

(事務所があるビルに到着すると、ガス自殺未遂の件で警察が出動する大騒ぎになっており、事務所の周囲にはすでに多くのマスコミが詰めかけ、物々しい雰囲気に包まれていたそうです)

そして、事務所に入り、福田専務が、岡田有希子さんに、なぜガス栓をひねったのか、ことの真相を聞こうとしたそうですが、ちょうどその時、相澤秀禎社長から電話があったそうで、福田専務が別の部屋に移動すると・・・

その一瞬の隙に、岡田有希子さんは屋上へ駆け上がり、そこから飛び降りて自ら命を絶ってしまったのだそうです。

ちなみに、福田専務は、岡田有希子さんが事務所が入っているビルの屋上から飛び降りたことについて、

峰岸徹さんへの直接的な想い(失恋のショック)というよりは、自分が大騒ぎを起こしてしまったことに対する強い罪悪感と自責の念から、パニックに陥って突発的に起こしてしまった衝動的な行動だったのではないか

彼女が峰岸徹さんに恋心を抱いていたのは確かです。でもそれは一方的なもの。ガス栓を捻ったのは、彼の気を引くためだったと思います。ただ、飛び降りは、周囲に迷惑をかけたという自責の念によるものだと思っています

と、語っています。

峰岸徹はマスコミによる岡田有希子の”遺書”の報道により長年バッシングを受けていた

さておき、岡田有希子さんの死後、岡田有希子さんが青山の自宅で書き残していた峰岸徹さんへの激しい思いが綴られた書き置きが、マスコミによって大々的に”遺書”として報道されているのですが、

峰岸徹さんは、この報道によって、世間から、

ベテラン俳優が若いアイドルを翻弄し、自殺に追い込んだ

という厳しい目が向けられ、

以降、長年に渡ってバッシングを浴び続けたのでした。

(それでも、峰岸徹さんは、記者会見以降、岡田有希子さんのことを公で語ることはなく、唇を噛んで耐え忍んだといいます)

岡田有希子の母親は娘と峰岸徹の交際を否定していた

ちなみに、岡田有希子さんのお母さんの佐藤孝子さんは、著書「岡田有希子 愛をください」(1988年)を出版し、その中で岡田有希子さんの遺書の一部を明かし、

佳代(岡田有希子さんの本名)の遺書――今でも、あれを遺書と言っていいのかどうか私にはわかりませんが――その中に峰岸徹さんの名前はたしかに書かれていました。峰岸さんが好きだった、と

と、岡田有希子さんが、峰岸徹さんに思いを寄せていたことが本当であることを明かしているのですが、

一方で、

峰岸さんとのことについては、女性週刊誌、テレビなどであれこれ取沙汰され、そのたび私は峰岸さんに対して申し訳なく、またお気の毒でなりませんでした。

峰岸さんと佳代の間に子どもができ、すでに妊娠何カ月で、佳代はそのことを苦にして自殺したというような噂まで書きたてたところもありました。

全く根も葉もない話です。こんなことまで書きたくはないのですが、佳代は死ぬ十日程前に、生理用品を買っていたのです。妊娠などということは、だから絶対にあり得ないことなのです。

と、娘を失った悲しみの中、峰岸徹さんを思いやる言葉を綴っています。

(岡田有希子さんが、峰岸徹さんに翻弄された訳では無く、単なる片思いだったことを明かすことで、娘の名誉を守りたい意味もあったかもしれません)

(「岡田有希子 愛をください」は現在は絶版となっています)

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峰岸徹にとって岡田有希子は”熱心に慕ってくるかわいい後輩”だった

さて、いかがでしたでしょうか。

峰岸徹さんは、「六本木野獣会」にいた若い頃から、明るくオープンな性格で、とても面倒見のいい人だったと言われており、

峰岸徹さんにとって、岡田有希子さんとの成城での(密会を重ねていたと言われる)時間は、決して、デートなどではなく、熱心に慕ってくる後輩の悩みを聞いたり、アドバイスを送る、大人の親切心からの行動だったと思われます。

また、成城の下宿先へベンツで送っていたのも、同じ成城エリア(徒歩圏内)に住むご近所さんであり、撮影所もすぐ側だったという物理的な近さから、ついでに送ってあげるという親切心からだったと考えられ、特別なことではないように思われます。

しかし、その”大人の余裕や親切心”も、初恋だったかもしれない岡田有希子さんにとっては、”自分を特別に想ってくれている”と思いたくなるのも全くおかしいことではありません。

ただ、その後、純粋すぎる岡田有希子さんが、峰岸徹さんの気を引くために自殺未遂し、さらに、その行動を後悔して(自責の念で)、本当に自殺に繋がっていたのなら悲しすぎますね。

「峰岸徹の前妻・藍とも子との離婚理由は?再婚相手は?子供は娘2人息子1人!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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