1959年、9歳の時、映画「江戸の悪太郎」で子役デビューして以来、60年以上もの間、第一線で活躍し続けている、風間杜夫(かざま もりお)さん。今回は、そんな風間さんの生い立ちや少年時代についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?学歴は?本名は?
風間さんは、1949年4月26日生まれ、
東京都世田谷区三軒茶屋のご出身、
身長171センチ、
体重66キロ、
血液型はO型、
学歴は、
世田谷区立旭小学校
⇒玉川学園中等部・高等部
⇒早稲田大学第二文学部演劇専修中退
趣味・特技は、麻雀、
ちなみに、本名は、「住田知仁(すみた ともひと)」だそうです。
少年時代は裕福な家庭で育つ
風間さんは、映画会社「新東宝」の営業課長で配給の仕事をしていたお父さんのもと、2人姉弟の長男として誕生すると、娯楽の少ない時代、映画の配給の仕事は羽振りが良く、終戦後、お父さんが手に入れた世田谷区上馬の自宅の土地で、何不自由なく育ったそうで、
ラジオの寄席番組を楽しみにし、おじいちゃんが持っている落語全集に載っている小噺(こばなし)をオープンリールのテープレコーダーに吹き込んで遊ぶことが好きな子供だったそうです。
父親は芸事が好きだった
また、風間さんのお父さんは、ガマの油売りの口上が得意で、「サァーサァーお立ち合い、御用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで、見ておいで~」と、家族の前で得意げに披露するなど、芸事が好きな人で、
浅草でのお墓参りのついでに、寄席や「デン助劇場」「女剣劇」のような大衆演劇にも連れて行ってもらったそうで、そんなお父さんの影響を受け、風間さんも芸事の好きな子供に育ったそうです。
少年時代は内気な性格もチャンバラごっこ(切られ役)が好きだった
そんな風間さんですが、小学校に入りたての頃は、シャイで内向的な性格だったそうで、百貨店の婦人服売り場に行くと、すぐにマネキンのスカートの中にもぐり、いつもお母さんが側についていてくれないと、積極的になれないような子供だったそうです。
そのため、遊びはというと、切手の収集をしたり、テレビの料理番組をマネて、公園で葉っぱを集めてきては、野菜の素材にしたり、折り紙で「ふくすけ」をたくさん作って遊ぶ「殿中(てんちゅう)遊び」と、一人で遊ぶことが好きだったそうですが、チャンバラごっこだけは別だったそうで、
風間さんは、
幼少の頃からチャンバラごっこになると、見事な斬られ役を演じることがごく自然にできていたのです。上手に斬られ、見事にのたうち回ると、誰からも喜ばれる・・・
人の喜びは自分の喜びにも通じている訳で、ここに私の役者人生の原点があると言えるでしょう。
と、語っています。
小学2年生(8歳)の時に児童劇団「東童」に入団
そのため、お遊戯会や学芸会では、人が変わったように、シャイでもじもじした性格が一変し、ハツラツとした演技を見せていたことから、
知り合いの父母が、
トモちゃんは学芸会ではつらつとしている
と、内気な性格を変えていくには、芝居の道しかないのではと、風間さんの両親に進言したそうで、
風間さんは、1957年、小学2年生(8歳)の時、お母さんに、児童劇団「東童」に入れられたのだそうです。
人気子役として映画に次々と出演していた
そして、翌年の1958年、小学校3年生(9歳)の時には、「東映児童演劇研修所」に入ると、すぐに子役として頭角を現し、次々と仕事が舞い込んだそうで、マキノ雅弘さん、加藤泰さんなど、名だたる映画監督の作品に次々と出演。
すると、少年雑誌「冒険王」の表紙を飾るなど、瞬く間に人気子役となり、小学5年生の時には、京都・太秦(うずまさ)の「東映」京都撮影所に10ヶ月間通い、連続8本の映画に出演するなど、引っ張りだことなったのでした。
(そのため、小学校にはほとんど通うことができかなったそうです)
ちなみに、「東映」京都撮影所には、いつもお母さんが付き添ってくれたそうで、
風間さんは、その時のことを、
母と撮影所近くの旅館で暮らしていたんですが、撮影のない日は二人で京都をめぐりました。嵐山、清水寺、金閣寺、銀閣寺、苔寺・・・。あのときの美しい風景はいまだに忘れられません
と、語っています。
「風間杜夫は早稲田大学の「自由舞台」に入団も学生運動をしていた!」に続く
子役時代の風間さん。