1950年代、小津安二郎監督ほか、数多くの名匠たちの作品に出演し、日本映画の黄金時代を支えられた、有馬稲子(ありま いねこ)さん。今回は、そんな有馬さんの、知られざる激動の少女時代についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
有馬さんは、1932年4月3日生まれ、
大阪府豊能郡池田町(現在の池田市)のご出身、
5歳の時の有馬さん。
身長158センチ、
血液型はA型、
本名は、
中西盛子(なかにし みつこ)、
学歴は、
釜山公立高等女学校(終戦に伴い在学中に帰国)
⇒大阪府立夕陽ヶ丘高等女学校編入
趣味は、
ガーデニング、掃除、ふとん干し、ウォーキング、水泳、
特技は、三味線、
有馬さんは、なんと、腹筋を1日1000回されているそうです!
父親は社会主義者で警察に追われる毎日
有馬さんは、大阪の北部(現在の池田市)で誕生するのですが、お父さんが社会主義者で組合運動を熱心にやっていたことから、警察ににらまれる生活で、赤ちゃんだった有馬さんは両親に抱えられ、大阪市内を転々とする生活を送っていたそうです。
そんな生活を見かねたおばあちゃん(お父さんの母親)が、有馬さん(4歳)を韓国・釜山(ぷさん)に住む娘(お父さんの姉=有馬さんの叔母さん)のもとに連れて行ったそうで、子供のいなかった叔母さん夫婦は、有馬さんを養女とされたそうです。
韓国釜山の叔母夫婦の養女となり裕福な幼少期
こうして、養父母に引き取られた有馬さんは、養父が釜山で家庭用品の問屋を経営し、商工会議所の議長などもやっている、いわば名士、養母も弟子が40~50人ほどいる日本舞踊の師匠(藤間流の名取り)だったことから、裕福で何不自由ない生活を送り、とてもかわいがられたそうです。
5歳の時の有馬さん。養父母のアイドルだったそうです♪
ただ、有馬さんが9歳の時には、養父が他界してしまい、その後は、養母が日本舞踊を教えながら、女手一つで有馬さんを育ててくれたそうで、
有馬さんは、後に、
お父さん(養父)もすごく良い人で可愛がってくれたんですけど、早く死んじゃいましたからね。それからはもうママ(義母) 一人の奮闘ね。女一人が日本舞踊を教えながら子どもを抱えて生活していくんですから、大変だったと思います。
50人くらいお弟子さんがいて、藤間流だから一年に一回くらい発表会をするんですけど、そのときにはママがお弟子さんたちの白塗りのメーキャップも手伝って、着物の面倒もみて、自分も通るわけですから本当に大変だったと思います。
と、語っておられました。
戦争で養母と別離も奇跡的に再会
その後、有馬さんは、釜山の女学校に進学するのですが、太平洋戦争が勃発したことから、授業そっちのけで、学徒勤労動員として、軍服のボタンをつける作業ばかりさせられたそうです。
一方、養母も、軍隊の慰問に出かけることになり、有馬さんは、養母と別れ、京城(日本支配期のソウル)に住む養母の妹の家に預けられることになるのですが・・・
その後、養母の行方は分からなくなってしまったそうで、終戦(敗戦)後、ようやく、二人は喜びの再会を果たされたのだそうです。(養母は、命がけの逃避行の末、奇跡的に帰還したのだそうです。)